Dossiri - Kamaeru

建築・都市・生活の領域に関する知識の体系化、技術に対する考察、書籍レビュー等

パソコンツールについての最近の気持ち

仕事でCADを使い始めて一ヶ月が経つので、いろいろフラストレーションをメモしておく。慣れたら気にならなくなる部分と、初心者だからこそちゃんと気になる部分があるので。

 

まず、ドラフト作業とデータ変換作業は、設計の仕事の一部分だけど本来的な仕事ではない。ここをいかに簡素化できるかに、関心がある。

 

下請や行政では未だに現役のJWW形式に対してコンバートする処理がだるすぎて、マクロで処理したいんだけど、いかんせん図面化けがひどすぎるせいで人間の手で修正を入れざるを得ない。

JWCADはファイル保存が遅すぎること、特に上書き保存中にアプリケーションが応答停止した時に保存前のファイルが破損するという欠陥が致命的だ。また、とにかく互換性がない。仮にコンバート処理してJWに回しても、マスキング・クリッピングしていたものがコンバートの過程で外れてしまう。うまくシェイプ合成やスプリット処理をして見え方通りの線データに変換できればいいのだが、そのように合成したデータは一気に重くなる。とくにExcelスプレッドシートの挿入、svg、アウトライン化された文字などで問題が発生する。画像についてはJWに変換してから再挿入すれば原理的には可能だが、そうするならCADである必要はない。

曲線も化けるし、UTF-8が化けるのも煩わしい。

 

Autocad系列のUIを持つソフトでは、とにかくハッチングまわりの形の変更が面倒。ハッチング面のsplitができない、和・差・積のシェイプ合成ができない、境界の操作の手間がある。

ブロックがうまく決まればいいのだが、他人の作ったデータのブロックほど邪魔なものはない。レイヤーでのグルーピングの代わりにブロックを使っている人のものは分解が面倒。せめてダイナミックグループで作ってほしい。

そして、overkillコマンドの処理が重すぎる。使えたものじゃない。joinコマンドもほとんど機能しない。そもそもauto系の致命的な欠陥は、オブジェクトのクロスリファレンスな演算が軒並み欠落していることだと感じている。Lisp使ってやっと使いやすさが向上したが、普通に使う分には限界がありそう。

 

形の操作が快適なRhinoceros系はそもそもペーパー空間が弱い。Make2Dの化ける問題もRhino7になって依然ながら残っている。平立断を作る時にデータクリーニングの人間的な処理を一々挟むようじゃ、cadとしては厳しい。ペーパー空間を作りたいならGrasshopper使えばいいのだけど、実装のハードルが高く、ここの環境づくりが重要になる。

ただ、CAD比較を通して、「注釈オブジェクト」に対する理解が深まったのは良かった。AutoCADを勉強することで外部参照の利便性を理解できて、結果としてRhinoでは基本使わなかった、属性定義やtext_atribute系の機能を使うようになった。

その結果、外部参照がVisualARQにしかないのことが少し違和感を持った。代わりとして、Worksessionが便利な感じはある。

AutoCADの外部参照も、印刷周りの仕様で多少使いづらい部分はあるけれども。

 

逆にRhinoのScale1Dの機能は、AutoCADにはないのだろうか。無いと本当に困る。

 

Archicadは仕事では使っていないけど、そのうち使うことになるのでその時に。

 

そもそも2.5dCADも3dCADにも当てはまるのだが、パターンの割り付けの一部を編集する、みたいなことを、ソフトの中で完結させる場合は、ダイナミックに可能な便利ソフトは多い。ただ、ここから互換処理に回すときにスタティックなデータにする為にそれらの便利機能を全部解除しないといけないのがダルい。

こういった部分は、ゼネラリスト御用達ソフトとスペシャリスト御用達ソフトの間でのデータの受け渡しでありがちだ。スペシャリストは反復処理の高速化が肝要であり、ゼネラリストは互換処理の簡素化が肝要となる。だいたい悪さをしているのはJWなので、JWとの互換さえ気を配れば特に問題は起こらないのだけれど。

 

化ける系の問題は、「知っているか知らないか」が多いので、経験積んでいくしかない。

 

東京0809

 

 

8月9日。良い建築をみたかった。

 

 

✴︎

 

 

関西から3時間かけて東京に来た。

 

駅についてすぐに東京風の広告に取り囲まれる。相変わらず視界に入る情報量が多い。

新幹線から山手線で渋谷に到着。

 

渋谷ヒカリエの隣にビジネスマンテイストの高層ビルができていた。

ビル面にスリット状の装飾がちょこちょこと並べられており、まるで電子音楽の楽譜のようだ。

この細切れの縦棒は、雑誌のテキストなどでは「和を表現している」などと説明されているのだろうか……と軽く眺める。

 

 

代々木方面に移動。

 

ドコモ製クライスラービルがちらちらと見える。

 

 

北参道駅の上のコープ共済プラザ。ファサードにおいて日建のエコファサード技術が盛り込まれている。端正でエッジの立ったコンクリート躯体に繊細なメタルのカーテンを纏っており、良い佇まいのオフィスビルだ。

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都市環境を考慮した緑のオフィスは、緑との接面において繊細なしつらえをどのように作るかが課題だと思う。この建築のしつらえは、美しい。

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GA Galleryに移動。

 

展示されていたのは、石上純也の浴場プロジェクトなど。

Zhu Peiの美術館は、ヴォールトという強い形で歴史都市に対峙する戦略をとる。内部空間は煉瓦と煉瓦の間から差し込む光で重厚な空間に厳格さを保持している。

CHRIST & GANTENBEIN のGrenzachに建つオフィスの計画。ある種のタイポロジーを持っており、とてもよい。

WOLFGANG TSCHAPELLERのWien Museum。不安定な幾何学に準じた中規模タワー。全く無関係だが、水戸美術館を想起してしまった。

ヘザウィックの新作は、「心臓」の作品と同様、膨らんだガラスウィンドウを持ったフレームビルディング。

違うのは、それがハイラインの下に滑り込んでいること。イレギュラーをデフォルトとするヘザウィックらしい提案。

モーフォシスは新たな形相表現として崖面のような建築を提案。

 

こういう展示は久しぶりに見た。

 

 

久しぶりに建築系の本屋に来たので楽しくなってしまい、まだ1日目なのに分厚い本を買ってしまう。

気になる本はまだあったが、さすがに荷物が多くなりすぎるので、気になる雑誌は帰宅後Amazonから取り寄せることにする。

 

 

 

銀座へ。

ソニーパーク銀座に立ち寄る。

 

ちょうど2周年のタイミングで、夜のイベントの準備をしていた。

 

ソニー銀座の歴史を継承した都心のアングラ空間とでも言えそうな、ざらつきの残る躯体、共用空間の垂直連続性、そしてスケール感。

 

大阪のグランプラント前の広場を頭に思い浮かべ、寧ろあそこは人が集まるが何も起こらない空間だと思えた。こちらのスペースは、"洗練"された都市の隙間であり、ある種の非ローカルな価値観を呼び寄せる。これだけリソースが集積した銀座に余剰のスペースが設けられていれば、常に何かが起きざるを得ないのだろう。

いつまで存在するのかは知らないが、こういう垂直的な広場があってもいいなと思った。

 

 

 

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UNIQLO TOKYOで買い物。

内部空間が剥き出しの構造体、特にハンチ梁で満たされている。その各所に鏡面が貼られており、人間の歩く姿やエスカレーターで移動する姿がそこらかしこに反射してうごめいている。ショッピングする人間のカラフルな装いが、カラフルな商品と混じり合う。

 

柱は鏡面による遮蔽によって、途切れ途切れに浮いたりしている。

電気設備は鏡の中に納めてるのだろうか?

 

仕上げは、どのコンクリート部分も素晴らしい。荒々しく自然であり、建物の履歴が薄らと透けて見えるようになっている。

(ざっと見て回ったが、話題のガラス洗い出し仕上げのコンクリートがどこなのかは、見つけられなかった)

 

(プロジェクトの都合上だろうか)ファサードは元建築からほとんど弄られておらず、華やかな銀座ファサードの中では控えめの表現だ。

 

評判通り。ユニクロの広告塔に相応しい。

 

 

✴︎

 

 

8月10日。朝、浅草を歩く。

 

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ふと脇を通過した浅草の公園。

公園空間を作った上で、後付けでその中に遊具に囲いが設けられている。治安上の処置なのだろう。子供の道路飛び出しを抑えているのかもしれない。直ぐ近くに浅草寺というオープンスペースがあるのだから、この公園に公園としての役割は期待されてないのかもしれない。

 

ただ、この公園にはデザインが介入できるように思われる。

要件として

・周囲から見られる(隠されていない)透明性

・限定された入り口からのみ侵入できる

・子供にとっても危険ではない

がある。ペットを囲うような排他的なフェンスを巡らせるのではなく、他のやり方はあるように思えるが……

 

歩く。

 

浅草寺の直ぐ隣には、ルーバーファサードの消防署が。難波和彦の設計のようだ。

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浅草寺は、広々として朝の空気に馴染み、心地良かった。

 

ところで今日は、北関東へ行きたいのだ。

そのまま東武伊勢崎線へ。

 

館林市庁舎を見に行く。

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各所にモダニズムの文法に則った処理が施されており、近くで見ると面白い。メタボリズム建築は往々にして、竣工は都城市民会館より古く、同年代のメタボリズム建築は設備等老朽化の能力の着々と姿を消している。残っているものについては、この市民センターのように、使われている状態で残っているうちに見に行ければと思う。

垂直性を軸としつつ、力強くボリュームを支えており、張り出した部分が建築の水平展開を表現する。建物の外壁は凹凸が多く、表情は陰影に富む。手前側はエントランスの低層部であり、主要部との接続部分は、緩やかなスロープでつながっている。プロムナード的なエントランスは、わかりやすく「良い」感じだ。

 

周辺は低層住宅地であり、道路が長く、一つ一つの家が割と大きい。人通りは日曜でも少ない。

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途中の道で、面白い増築の仕方をした住宅を見つけた。構成が妙である。

 

駅に戻る。

そのまま太田市へ。

 

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太田市美術館図書館。

 

思うに、図書館というプログラムは蔵書を組織化された配列で陳列する必要がある訳だが、その線形的な分類法ゆえに「螺旋形状」のプランニングと相性がいい。

ドミノプランは、リスト構造の一連の書籍を階層ごとに切断せざるを得ない。ゆえに、ドミノの層をまたぐ本の流動に関しては不得手である。

図書は、その分類法に基づく1次的な分類(大分類、中分類、小分類の木を直列化したもの)のもとで、2次的に、作者やタイトルによる分類(辞書的分類)が行われる。螺旋は、そのリスト構造を物理空間上に実現できる。

この図書館では、膨張する情報を格納し続けるために、螺旋回廊に沿って連なっていく本棚の調整機能を活用しながら個々の場に応じて解いているように感じられる。例えば、テラスが段々に重なる駅方向と、回廊性がより強まる駐車場方向とでは、図書の格納方法も変わってくる。

 

 

新型コロナウィルス対策でリファレンスなどは制限が掛けられていた。

内部空間は非常に豊かなものだったが、写真はSNS流出禁止なので見送り。人の溜まり場になるようなカマボコ状のスペースが外部方向に向けて多く作られているのだが、円盤片の重なりのズレによってスラブが庇となったり、吹き抜けスペースとなったり、テラスとなったりしている。建築的操作によって人の居場所が多様に生み出されている。

緩急のついた傾斜天井のおかげで、空間の天井高も様々に変化している。

 

鉄骨がRCフレームの箱から突き出て、螺旋状のデッキプレートを支持しているようだ。ステップフロアはバリアフリーとの相性が悪いわけだが、この建築は中央部分はフラットであり、吹き抜けによって3階層が可視化されている。

迷宮的な空間ではなく、「巡る動線」と「行き来する動線」が同時に用意されている点で機能的な空間だ。ガラスの外には駅や様々な都市の要素が直接見えるため、巡る動線は常に外界に接しており、そこにいる人が定位できるようになっている。テラスも同様だ。

 

建物の中に中心があるというのは、このような建築物において(盲点となりがちだが)重要なことだと感じる。

 

 

 

 

ついでに、駅から2、3キロ離れた場所にある太田市民会館にも寄る(往路は歩いて行ったのだが、遠すぎて後悔することになった)。

周辺は中学高校があり、いくつかの施設といくつかの店があり、田んぼが広がっている。

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遠くから見た、コンクリートの塊。郊外の工場か何かに見える。

 

びっくりするほど大きい。

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近くに寄ると、これまた大きい。

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アルマイト処理の模様が見えるアルミパネルの外装から、コンクリート打放しが顔を覗かせる。当然のように杉板型枠が使用してあり、そのスケールに圧倒される。

 

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駐車場側からのエントランスも、その庇によって特徴づけられている。エストニア国立博物館には劣るが、こちらも十分に力動的な印象がある。

 

内部空間は市民会館として明快。風除室を過ぎて巨大なロビーがあり、奥に劇場がある。

 

平面操作として、L字型のロビーに二種類の小シアターが嵌め込まれてるようになっている。インフォメーションの反対側にはラウンジスペースがあり、二層分の天井高と薄暗さによって、開放的で落ち着きのある空間になっている。斜め要素はエントランス周りの切り立った部分以外は、ロビー空間にはまるで存在しないが、主劇場のコンクリート駆体が不整形な形を顕した状態でロビーの奥に控えているため、「あそこが劇場(核となる場所)なのだな」と来訪者にはすぐ分かる。

 

はじめはその巨大さゆえに驚いたが、プログラムに準じた建築的操作がいくつか見られた。

 

 

✴︎

 

 

8月11日。今日も、良い建築をみたかった。 

中央東線に乗って三鷹方面へ。

 

 

武蔵野プレイス。

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メインライブラリーは地下一階にある。建物の四つの吹き抜けがグランドフロアと地下一階を繋ぐ(ただし、見る見られる的な繋がりではない。地下一階がまるで地上階であるかのように明るく、外部の緑や光を感じさせるようになっている)。

 

 

空間は柔らかい。柱は(B2以外において)四角のまま現れているものがほぼなく、星芒形に近い十字形やT字形、H字形で作られている。

柱が接地する部分の壁面や、梁の部分が垂れ壁面を作り、全体的にフィレットされることによって、かまくらのような白い空間を作る。

 

この柱は場所によっては書架の背として使われたり、掲示物の背に使われたり、カウンターやデスクやその他の什器の背に使われたりもする。垂れ壁は、シングルになっている場所とダブルになっている場所があり、ダブルの部分は鏡面を利用して柱(あるいはPS?)を隠している。

 

「柱が壁として現れてくる」というのは面白い。建築操作によって、空間の性質が変えられている。

 

かまくら空間の天井高さは3000以上ある。2スパンに跨ったかまくら空間が部分的に存在する。吹き抜けの断面に出てくるスラブ厚は遠目で見て800〜1000程。梁型が現れてこないため、ボイドスラブだろうか? このスラブの平滑性も、空間の流動性と連続性に寄与している。

 

 

大宮前体育館へ。

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こちらも武蔵野プレイス同様、写真撮影禁止。内部は、思ったよりニュートラルに作られていたといった。何か感想を挙げるとすれば、天井の仕上げが意匠的だった。

コンクリート駆体一枚隔てて、体育館とそれ以外のプログラムが区画される。円形の建物の外周には、カフェ、エントランス、サービス関係が配置されている。建物自体が地域の通り道になるようなコンセプトではなく、施設としての配置計画なので、エントランスは一箇所のみだ。

公民館の方は、地域の子供が入り口あたりに座って話していた。敷地内において、体育館と公民館は一つの公園の一部だ。しかも洗練された都市公園という趣はなく、どこにでもある公園のようにざっくばらんな外溝計画となっている。

かろうじて、外周のサービス用出入口まわりの立面が意匠的な遊び心を残していた。

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座・高円寺へ。

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二階カフェの吹き抜けが気持ちよい。

この表側の階段も良いが、裏側にあるエレベーター隣の階段も良かった。

この劇場は、市民の憩いの場所(サードプレイス)を目指している。私も、1人のエージェントとしてそこに立ち入るのならば、より深く建築の構成を分析できたかもしれない。その成り立ちについては、伊東豊雄を特集した「PLOT 05」に詳しい。

私がその場で感じたものは、ある種の「秘めやかさ」と「寛ぎ」である。これが劇場であるためにドキドキとする空間としての演出が多くあるのだが、その多様な人々を等しく市民として囲い入れるだけの寛容さを持つ。

 

 

✴︎

 

 

今回の建築旅の振り返りとして、

・都市の中の建築(太田、武蔵野、高円寺)

・都市の外れの建築(市民会館)

で印象・スケール・外部の見せ方が対照的だと感じた。

 

都市の外れの建築においては、外部は「光」あるいは「外部という概念」として内部に取り込まれる。そこには、均質でモダニズム的な外部の取り扱いが存在する。

最近の都市の中心に建てられる公共建築においては、外部は「意識させる」ものとして扱われることが多い。高円寺は完全に遮断はせず(ゆえに閉じられた印象を却って強めることとなる)、太田は一体となるように作られる。武蔵野では外部の環境が「内部に注ぎ込まれる」。

また、今回見た都市の中の建築は「配列」概念でその構成を取り扱うことが難しいものばかりだった。

 

そして、今回の建築は、「ダイアグラムで実現する機能」と「場所としての性格」がそれぞれ別位相で設計されているものが多かった。すなわち、建築の成り立ちは幾何的に説明してはいるが、居場所の雰囲気を実現しているのはそれとは異なる親密さのための建築操作の積み重ねによっている。この点も、大変勉強となった。

 

 

旅行は、小さな適応行動の積み重ねと言える。

今回の建築旅行においては、自由にビジネスホテルを取りながら旅行したのがストレスフリーで楽しかった。

建築を見て歩く際には、きちんと写真を撮っていいか確認してから撮るのが、東京の建築では重要なマナーだと思う。近年は肖像権の関係で内部写真撮影NGな建築物が多い。

また、歩く際には、持っていく服には気をつけようと思った。リュックとラフなシャツで歩いた結果、汗が脇に集中して目立ってしまうという不快な状況に悩まされた。真夏日に出歩くならば、白か黒のシャツが良い。

交通の連絡について。今回は鉄道ベースで旅行したが、北関東中心の旅行ならば車で自由に移動した方が良いように思えた。

 

 

次に関東に行く時は、鎌倉や群馬、埼玉の近代美術館を中心とした旅行を立てようと思う。

 

まだ、建築言語の概念が活き活きとしていた時代の建築、そのデザインに興味がある。

 

 

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2020/08/09 - 08/11

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「レイアウト基礎」個人メモ

メモだけ残しておきます。

 

・要求に沿ったデザイン(表現の性格を合わせる。タッチやフォント)

・伝えたいイメージのための様式(どのようなイメージとして伝えたいのかを第一に検討する)

・画面の構成要素は、文字 / イラスト(挿絵) / グラフ / 写真 / 人の顔 / 図式 / 図説 / 表(table) / ロゴマーク など

・視覚の直接的なイメージの希求度の強弱によって、画面の賑やかさ/寂しさ、親しみ/規律 などのバランスを整える

・図と文字の画面構成按分によって、「緊張感」「静けさ・無音さ」を過度に表現したり、バランスを整えてわかりやすくしたり読む気にさせたりできる。文字ばかりになると、排他的な印象を受ける。

・活気やメリハリを上げるためには、文字のジャンプ率(文字大きさのギャップ)が重要。

・写真や図版の大きさを揃えると落ち着いたフラットな印象になり、大きさのギャップを高めると歯切れの良い印象や堂々とした印象となる。いづれにせよ、コンセプトにふさわしいジャンプ率を目指すべき。

・写真のジャンプ率を上げるためには、写真の構図(エンティティの疎密)も考慮すべき。具体的にいえば、接写具合とトリミング。写真が強調したいことと、レイアウトが強調したいことが仲違いしては表現の効果が低下する。

・図の性質が画面の中で、「角」「裁ち落とし」「切り抜き」「その他(ボケなど)」どれに属すべきかを図の内容で考慮する。切り抜きは印象が軽いため、VIP的なものや威厳あるものを表現するにはそぐわない。

・画面を分割するグリッドに対して、その拘束具合を操作することで、カジュアルさを表現出来る。

・余白で上質感を伝えること。逆に機能的なものは余白を落として情報量を増やす手もある。

・センター揃えのメッセージや紹介文は格調高い、上品な改まった印象。しかし、あまり乱用してもバカに思われるので、理知的な印象を出したいなら頭揃えのほうが基本となる。

・字詰めは35字を超えない。

・主役同士は隣接させない、接近させない

ゲシュタルトによるグルーピングを使い整理する。リズム、対比、補完、相似、比例などを用いて、画面を統合する。

 

→ デザインのルールがあるからこそ、ルール外しもできるわけであり、理論を学ぶことは重要

「尊敬される状態、尊敬できる人間関係を維持する」

 

✳︎


「尊敬される状態、尊敬できる人間関係を維持する」にはどうすればいいか?

 

 

 

このご時世、自分のいいところを他の人が発見してくれることってそんなにないですし、

同じように自分が他の人のいいところを発見し言語化できることも少ないかと思います。

「尊敬」ってすごく貴重な感情。

 

だからこそ、尊敬を基軸に人間関係を構築していきたい。

 

そういう思いから、本題の問について理解を深めていきたいと思っているのですが、

同じような思いの人もいるのではないでしょうか?

 

 

 

たとえ信頼し始めた関係でも、

信頼関係の萌芽から、それを少しずつ育てていくという過程においては、

つねに緊張感と誠実さと研鑽の意識をもっていないといけないです。

 

こういったものを維持するためには、週の初めから終わりまで、

「言葉にして」確認しないといけない。

  

 

社会人が始まって1冊目のメモ帳では、こういった風に自分の在り方(目標)を考えています

私利私欲で物事を考えない

 「口ではなく(行動で)」「相手目線で、相手の困っていることを知る」

 「相手の気持ちを考えて、行動する」「押し売りはしない」

聞く態度に誠実さが現れる

 「対面では、目を見る」

 「相手が何か話したいことはないか、気遣う」

時間を守る

 「身の回りの人すべてを、待たせない」

 「遅れた時に、その重大さを理解して隠さず嘘をつかず謝る」

 「スケジュール管理」

 

つまり、ここでは、これさえ意識しておけば不誠実な人柄にはならないだろうことを、リストにしています。(たとえ、不誠実な人柄にならないことを意識していても、不誠実な事を結果起こしてしまわないためには、別の意識が必要かとは思いますが、これは、今回の基本姿勢の話からの発展になるので今回の関心からは外れます。)

 

※ 相手に気遣わせないとか、相手の心をほぐして開かせるとかは、誠実であることとは別のテーマであり、それは「務め」ではないかと思います。しかし、これらが人間関係においてお互いを「見る」「見られる」(相互に存在として認識する)きっかけになり、それが信頼関係のもとになることは理解すべきです。

 

 

すなわち、冒頭の問題提起に対して、今回の問題の構図は以下の図のように考えられます。

 

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基本的に尊敬を構築するためには、以下の点を指摘できるでしょう。

 

・尊敬はお互いを、デキるヤツ、あるいはスゴいヤツ、かつ、いいヤツであると認識することであり、そこにお互いへの関心が入ると尊敬し合える関係となる。

 

・そのためには、成功体験・感性・誠実さ の3つをきちんと意識して言語化していくこと、そして磨いていくことの必要がある。

 

 

また、尊敬しあえる関係は維持することがほんとうに難しいです。

環境のマンネリ化、「当たり前にそこにいる」存在となること、無関心化、ないがしろにすること、多忙や慌ただしさの中で相互配慮がおろそかになること、馴れ合いにより尊敬し合える部分が見えなくなること、などが原因となってしまい、簡単に尊敬感情は薄れていきます。

 

だからこそ、日々を新鮮に生きる必要があり、フレッシュさをつねに自分の身から出していかないといけないのですが・・・

 

そのためにはどうすればいいか?

図にも示した通り、これについては、

「溌剌さ」と「依存の分散」がキーワードとなると考えています。

 

 

以上のことをきちんと実行していけば、信頼関係が続く限り、尊敬感情は続くのではないかと思います。また、尊敬と「仲良し」は別物ですが、うまい距離感と緊張感をもって人間関係を続ければ、ふとした拍子に仲が良くなる可能性もありますよね。

 

 

✳︎

 

以上、今週1週間を振り返って、どうやったら丁寧に人間関係を維持できるのか考えた結果となります。

来週も、人間関係を良好にして、充実した人生を実現するためにも、うまくやっていきたいです。

これから先のことを考える

これから先のことを考えたい。

 

よくわからないものを建築して、クライアントと分かり合えぬまま仕事をこなして、

設計の仕事についたのに何も設計していないような感覚で日々生きることになるのだろうか?

それとも、社会人として生きていくことに嫌気がさして、誰かに影響力を持つことにも嫌気がさして、自分が自分を許せるような場所に失踪するのだろうか?

 

かろうじて、なにかの縁にひっかかり、周囲の人との調和の為に生きていくのか?

設計したかったものも、設計のエネルギーとなるようなアイデアも、空間の豊かさが生み出す創造性の興奮も忘れて?

飢餓感も、緊張感も忘れて?

「むかしは人と交流していたのだけれど」とか言い訳を残して?

 

自分は今まで、軽蔑すべきものを相手にしたとき、「これは悪い手本だ」と考えて、そうならないように勉強と試行錯誤を重ねていた。

本当に、そういった悪い物の集合に回収されないような仕事ができると、今は思ってはいない。そういうものを作ることはとても難しいから。

人に良い仕事をしてると評価されても、それ自体は嬉しいけれど、中身の空っぽさは自分自身がある程度は把握しているから、(そして寄せられる批判に対して抗するだけの戦略や作りこみができていないことを自覚しているから)自分に良い仕事ができるとは到底思えない。

 

だけど、必要な仕事だけするような姿勢では務まらないことは知っている。

建築の設計はそもそも、余白に対する能動性から出発する職能だから。

 

 

これから先のことを考える

 

 

諦念を覆すのは、ひとつのアイデアであると知っている。

あるいは、一枚のスケッチ。

私は、建築家としての思考の習慣をすっかり忘れてしまった。

「やらねばならぬ」ものと、「それをやれさえすればよい」ものにすっかり馴れてしまっていた。

院試、免許、就活、資格、修論、読書。

人生の節目を象る、さまざまな達成ごと。

「表現」にはとうてい、なりえないもの(ら)のために割いたエネルギーと、

そこから人との交流を引き出そうとした徒労を、苦々しく感じる。

 

これから先の人生は、短距離走の繰り返しだろう。

時代と自分との関係性を見つめなおすのもよかろう。

単発の仕事と単発の仕事との間に、連続性・指向性・あるいはビジョンを見出すのも良いだろう。

或いは単に、仕事一つ一つの誠実さから、客観的立ち位置を構築していく生き方に終始するだけでもそこそこの納得は得られよう。(それはあらゆるものの必要条件だと思うが。)

趣味や、自身の考え方や、生活のあり方のボリュームを大きくし、豊かにし、その中身の濃さに満足するような日々を選んでも良いかもしれない。

全てを勝ち取ることはできるかもしれないし、貧困を理由に何一つ勝ち取れない可能性もある。選択する必要さえあるかもしれない。

わたしは、周りの人々の考えに影響されながら、自身のアイデンティティと積極的な在りようについて納得してきた。いまは、誰もそのような他者はいないが、少なくとも学生のうちは。

 

私の生き方は、私が選択した私の環境に依存する。これは私の基本姿勢だ。

しかし、修士以降、わたしは何一つとして、自身の環境に対する選択権を満足に利用してこなかった。そして、実力不足と人柄の欠如が原因で、環境を選び取ることすら能わなかった。

環境の再選択について、自身はもっともっと、「ひと」を頼りにして行動しないといけないのかもしれない。利便性の高いインターフェースや本や知識を頼りにして選び取れる環境になんて、限界がある。

わたしには、「ひと」がいない。これは、建築家は建築家である以前にまず人としてしっかりしている必要があると何度も説かれた私にとっては、永遠のテーマである。

環境と「ひと」と、仕事と、「機会」。これらの(重要な)対象を考えている限り、建築そのものとは遠い位置で自身がもがいているような気になってしまう。

 

卒業が近い。

 

内向的な自分に、「社会を問う」仕事は、向いていない。その意味で、建築家を志すことは過ちなのかもしれない。

一方で、設計を意匠として捉えなおした場合、私にとって建築のプロフェッショナルへの道はおそらく泥沼の道となるだろう。その競争で、私は勝てない。

私の思考は、それなりに論理的に、それなりに微細に、それなりに統合的に、物事を組み立てることができる程度のポテンシャルはあると自負している。手を動かす遅さと、人に会う足の重さがネックなのはわかっている。それは社会に出ても、日々直そうと意識してゆくことにしている。

 

タスクフォーカスのために、娯楽を増やすのはやめるべきだ。

たとえばゲーム、不必要な承認のためのSNS、着飾るためのものごと。

SNSは理念の共有のためにあるべきだ。

 

30歳になったとき、自分は何一つ変わっていないのだろうか。

それとも、それなりに「実績」が生まれてるのだろうか。

その実績に、意味はあるのだろうか。

 

「意味のある仕事にきちんと足を踏み込む」というコミットメントを、修論ではできなかった。踏み込みが甘かったし、浅いし、そして踏み込んだ足を戻してしまったのも自分だ。惜しいとこまで来たのに、卒業できるクオリティで満足してしまった。実際は不満だが、都市に関するセクターと本気で話し合うことに気後れしてしまった。

修論のテーマは、もう少し、踏み込みたい。今の職場の延長線上にはないのだけれど。

 

自身のやりたいことが、「建築」となるとまるで見えてこなくなる。修士の間に建築に関わることができなくて、社会システムだとか環境デザインだとかそんなことにばかり触れてたのもあって、それらの沼にはまってしまうことの問題も見えてきた。

「相手はそもそもわたしの作り出す余白に興味はない。しかし、相手にとって切実な事柄に関して、それを解決するためのファンクションには、経済と社会に対する営業能力のほうが重要であり、デザインが主人公ではない」

本当にそうだろうか?その部分の議論は、研究室ではできなかった。

これらを含めて、私には、生きる知恵が欠落している。

 

 

調べなければいけないことは多い。

お金を稼ぎ始めてから、自分が取り組むべきことについて、

自身に足りていない情報について。

何故自分が垢抜けしないのか、その原因について。

社会常識について。

ひとづきあいについて。

 

 

修論を書いて、卒業できる自分はある程度努力してきた。

これから先、努力しない場合どうなるか(いかに簡単に人生が立ちゆかなくなるか)は、覚えておかないといけない。……いつまでも。

どうしたら自虐しない人間になれるか

 

 

自虐は百害あって一利なし。

わかっていても、ついついやってしまうのが自虐です。

 

 

自虐は、いわば自分に保険をかけているようなもの…

自覚しているからこれ以上言わないで?と先方に先手を打つことは、実は結構相手に失礼です。

 

相手が自分の欠点を知っていたとしても、その点について相手が触れないでいてくれることもあり得るのに、そもそも相手を信用していないから卑下をする。

 

そうです。自虐は褒められた行為ではありません。

自虐は①非生産的②面白くない③関係に悪影響を与える④印象悪くなる と様々なデメリットがあります。

わたしは、自虐してしまうときはだいたい、

(自分なんて、…これ以上印象悪くなんてならないでしょ…?)

とか不貞腐れています。

こういう心理の時には、既に自分の印象とか面白さとかすごいどうでもよくなっているのですが。

それでも、割と大事にさせてもらっている人たちが自分を敬遠するようになるのは嫌です。

 

なので今日は 「どうしたら自虐しない人間になれるか」 を考えます。

 

【自虐しないための考え方・ふるまい】

①自虐の原因には個人差がある。自身にとっての自虐をしてしまう心理を理解しよう
 
②自虐は、ある対人関係の下で癖になっている可能性がある。「思わず自虐したくなる相手」には共通の特徴があることを理解しよう
 
③他のことを考える「ゆとり」を作ろう。コンプレックスはだいたいゆとりのなさから生まれる。
 
④有限時間の会話を自虐に割くのはもったいなさすぎる!!と分かって。
 
⑤「自身の欠点に危機感を持っています」と己の見解を正当化するのは悪ではない。ただそれに終始してしまっては、何のための自虐かわからない。そこからどう行動を展開するかを話すことに時間を割くためにも、自己否定は必要最低限に抑えよう。

 

 

【自虐のメカニズム】

自虐する人間に育ってしまった(あるいは長期的習慣の中で変わってしまった)ことには原因があります。もっともメジャーな理由は、外部圧力とハラスメントです。

こういったものに継続的に触れ続けると、それだけ「解決できないことに思いつめる時間」が増えて、自己防衛意識が高くなります。

 

自己防衛意識は、〈 後ろめたさ 〉や、〈 バレたくない秘密の保持 〉、〈 少数派であること 〉等と関連があります。

押し付けられた価値観に対する劣等感と抵抗心が、意識の矛先を外環境から自分の内側へとむけさせます。一度育ってしまった自己防衛意識は捨てがたく、また人によっては被害者意識やコンプレックスなどが併発し「拗らせ症候群」の域に入ってしまうこともあります。自虐のメカニズムは、人それぞれです。

 

わたしの場合は、解決しようとすれば解決できるのに解決しようとしないような問題について、特に自虐がひどくなる傾向があります。努力不足に対する後ろめたさが、自身を自虐に走らせます。これは誰でも理解できることですが、この意味での自虐はただ純粋にダサいです。私の場合まずはそこを直さないといけないのですが(自戒)。

 

 

自虐癖は過去の対人関係からの影響も受けています。

例えば、「自分が自虐を言うと笑ってくれる」人と長いこと一緒にいると、自虐が掛け合いの一種のようになり、次第に癖となっていくことがあります。

もちろん、共感性の高い人ほど、自虐ネタを「面白い」と感じることはありません。ただ、せめて笑いに変えないと、完全に独り相撲となってしまって痛々しいからネタにしているのです。

自虐で笑ってくれる友人は、極端に想像力の欠けた人か、あるいは優しい心根を持った人です。優しい友人には、心配かけないようにしたいのですが…。

また、継続的な自虐は他者への依存心を高めます。依存を伴った自虐は、相対的にみて、相手を性悪に仕立て上げる行為でもあります。相手の為にもなりません。

 

また、別の視点から見れば、自虐は一種の文化です。謙遜することと自虐は似て非なるものであることを理解しましょう。謙遜は素直であり、自虐は素直ではありません。謙遜は次の油断なき行動や備えに繋がっていきますが、自虐はその場で停滞しています。

某丸山さんの言葉を借りるまでもなく、「である」ことより「する」ことに意識を向けることは重要です。

言い換えれば、自分自身の言動の「自由」に対する感度を高めることが肝になります。

 

 

金・能力・体力・実績・恋愛・人間関係などに関する余裕の無さが、人を自虐に走らせます。

自虐しない人間になるという事は、心の持ちようで解決しようとするアプローチも重要ですが、こういった現実的な側面にも目を向けることが必要です。

 

これらは簡単には変わってはくれませんので、「全力で今に集中する」ことで変えていくしかありません。自虐している暇がないくらい忙しくするのも一つの手です。それでもどうにもならないときには、…どうにもならないので、…世知辛いと主張してみてはどうでしょうか…?

 

現実的にゆとりがないときほど、心のゆとりが重要になってきます。「誰も守ってくれない」「誰も…」という風に考え始めたら黄色信号です。

あなたが影響力を持っている領域が狭まっているとき、また、あなたができることを見失っているとき、そのことに気づかせてくれる人はあなた自身しかいません。

 

 

会話の時間は有限です。意識と思考のリソースも有限です。自虐は、他に考えることがないから考えていたりしないでしょうか?「間が持たないから」つい自虐に走ってしまうのです。

実は、自虐をやめると、本来やるべきこと、話すべき会話、そういったものが見えてきます。ひとたび思考領域をシフトしてしまえば、いかに勿体ないことをしていたか分かります。

 

 

少なくとも、自虐は手段としての善し悪しはあるにせよ、「自己発信」の側面を持ちます。自虐をダメなものと捉える本記事の趣旨とは反しますが、しっかりと自己発信できているあなたは(前提として)えらいんだ、と自分を褒めてあげるべきです。

「自身はクズだ、ダメだ」など漠然とした分析のなっていない自虐ばかりしているわたしに比べれば、あなたの自虐はよっぽど具体的で明晰である可能性が高いです。それならば、自身の課題点を理解することは、根本的な原因を考え解決するための第一歩です。これは自信を持てることです。

自身のダメな部分を分かっているのは、それだけ自己分析がしっかりしているということです。

長期間にわたる自己分析・悩みの蓄積と、その背景があってこその自虐癖です。自虐を通してあなたが訴えている心の状態は、案外長期的にあなたが発しているメッセージであり、そしてそれは、しっかり人にも伝わっています。

 

「寂しさによる自虐」「やるせなさによる自虐」「自身への腹立たしさによる自虐」「後悔による自虐」…様々な自虐があります。

しかし、どのような自虐にせよ、周りの人はきちんと気づいています。ただ、それらの多くは内面的なものですから、他人はあなたの自虐を咎めようともしなければ、親身になることもできません。

(もしかすると、その反応が理由で、あなたは満たされていないのかもしれません)

 

もしあなたが、自身を大切にしてほしいとの気持ちから自虐をしてしまうのならば、相手にはその気持ちが伝わっています。伝わっていることを何重にも説明することは、もう大丈夫です。

だから、自虐はもうやめてもいいのです。そうすれば残った時間で、「そこからどう動くか」に意識のステップを進めることができます。自己言及は、自分で思っているよりも冗長になりがちです。スマートかつ端的に自身の課題点を説明する訓練を普段からしておくことで、自虐から生じる湿っぽさがなくなり、軽やかに生きることができます。

 

 

【どうしたら直るか?】

 

” 自力本願で自虐をやめましょう。 ”

 

自虐を止めてくれる人を期待しているときほど自虐を吐きがちという無限のスパイラルが、自虐癖には含まれています。

 

巷では自虐している人を名指ししてあなたを傷つけることに喜びを見出している人もいますが、彼らは「自己愛のない人間に対して、これを大切にする必要はない」という冷淡な人間なのであって、そういったひとに構う必要はありません。取るべきは、距離です。

一方、あなたに直接言わないものの、あなたに対して、(自分を大切にしてほしいな)とひそかに思っている人たちがいます。もしあなたが自虐をやめたら、こういった人たちに気づけるようになり、お礼を返せるようになるかもしれませんね……。

 

それでは、おやすみなさい。

【私メモ 】: 2019年総括(1)

自分は孤立した人間だ。

孤立するだけの理由を持った人間であり、それによってトラブルを繰り返してきた。

そして自身の起こしたトラブルの量を受け止めきれなくて、一般的な常識感覚で考えることを次第に回避するようになり、目と耳をふさぎ、人との関係を作らなくなった人間だ。

 

そのたぐいの懺悔はまあ別の場として、現状を知るという事は大事。

 

自身に足りないものをピックアップし、本年度それがどうだったか振り返る。

 

・思考が甘い

・計画が甘い

・調整が甘い

・実践が甘い

 

この4つがおよそ自分の弱点だ。

今までの自分の課題はこちら。

 

・思考が甘い

→これは、すなわち対人関係の甘さ。

!配慮不足

!他人についての知識不足(すぐ忘れる)

!関心不足

!尊重不足

 

・計画が甘い

!見通し不足(いついつまでに完成させる、という行動習慣)

!そのためのタイムラインの不足(そもそも作らない)

!事前に必要なことを直前にやろうとすることによる破綻(搬出入などが最たるもの)

!未成熟な完璧主義(自分にできることとできないことの線引き)

 

・調整が甘い

!報告不足(特に、お世話になった人たちへの後日連絡)

!謝罪不足(何かが遅れた時、返事が遅れた時、無断欠席)

!予約不足(単なるアポイント以外。意識して頻度を確保しないといけないコミュニケーションに関する先だった申し込みについて。教授への報告など)

!予定に対する生活習慣の調整(睡眠時間など)

 

・実践が甘い

!手を動かす

!足を動かす

!金を稼ぐ

 

 

……

 

今年は、研究によって個人での作業が今までで一番多かった。それは気楽で、快適で、自己責任の範疇をコントロールしやすく、単調なりにも充実していた。

①対人関係

まだ全部を消化できていないけれど、少しずつ心理的な債務を返済している。前半は、「忘れる」ことを採用していたけれど、後半では「向き合う」ときにある程度勇気をもって行動しないといけなくて、それができたあとにいままでより状況が悪くなることは今年はなかった。

②計画

はやめはやめに全力でやることで、かろうじて釣り合っている感じ。

本当は、時間ベースで計画しないといけないので、あんまり改善できているとは思えない。しかし、成果物だけでみれば「間に合っている」パターンが少し増えた。あとは姿勢の問題。

③調整

調整することそのものがあまりなかった。個人的には進展はなし。「精神的に余裕がなくなった時にもきちんと調整する」というための、精神的余裕がないシチュエーションが例年に比べ、まだ少ない。逃げてる?

④行動実践

バイトに至るまで時間かけすぎ。▲。手と足に関しては、手は動かしているけれどデータ収集に直接寄与していない。足も同様。

 

 

はい。来年はうまく「向き合う」時間を多忙な中に作れるかどうかがネックになるとともっている。来年は、環境かえるので、引っ越しとかもあるし、自発的に資格勉強の段取りしないといけなくなるし、今年よりも破綻するリスクが高いと思っている。

最近のツイッターで、「やっていき」に関する記事を読んで、まさに元研究室でテーマとなっていたことや自身の諸々の主題が「やっていき」に関わるものだと気づいた。視野が少し開けた感じがしている。

「やっていき」は、ローカルなスケールで「問題解決」に拘るのではなく、リソースの創出を通して可能性を開拓していく姿勢である。

完璧主義で理論で考えがちな自分がどうしても実践に敷居の高さを感じてしまう一因となっている(まあそれは自分が人に迷惑かけすぎた結果の臆病がそもそもの最大原因なのだけれど)、実践の中で発生する「不毛さ」とどう戦うのかって問題に対して明快な答えを与えている。いわば、追求すべき、楽観主義だと感じている。

 

こういった概念が大切だな、と感じたのは、「フィールドに入れ」という圧力から解放されて、少し楽にフィールドと向き合うことができるようになったことによる振り戻しである。どう生きるか、自分が何を得意なのか、それを考えながら勉強するのは、単に興味のあることを勉強するよりも、時間を割く理由ができてはかどりやすい。

 

うまくいくことだけやるな、と自分に言い聞かせつつ、フィジビリティのある人生を送りたいと思っているこの頃。来年に向けて師走を走り切ります。