Dossiri - Kamaeru

建築・都市・生活の領域に関する知識の体系化、技術に対する考察、書籍レビュー等

これから先のことを考える

これから先のことを考えたい。

 

よくわからないものを建築して、クライアントと分かり合えぬまま仕事をこなして、

設計の仕事についたのに何も設計していないような感覚で日々生きることになるのだろうか?

それとも、社会人として生きていくことに嫌気がさして、誰かに影響力を持つことにも嫌気がさして、自分が自分を許せるような場所に失踪するのだろうか?

 

かろうじて、なにかの縁にひっかかり、周囲の人との調和の為に生きていくのか?

設計したかったものも、設計のエネルギーとなるようなアイデアも、空間の豊かさが生み出す創造性の興奮も忘れて?

飢餓感も、緊張感も忘れて?

「むかしは人と交流していたのだけれど」とか言い訳を残して?

 

自分は今まで、軽蔑すべきものを相手にしたとき、「これは悪い手本だ」と考えて、そうならないように勉強と試行錯誤を重ねていた。

本当に、そういった悪い物の集合に回収されないような仕事ができると、今は思ってはいない。そういうものを作ることはとても難しいから。

人に良い仕事をしてると評価されても、それ自体は嬉しいけれど、中身の空っぽさは自分自身がある程度は把握しているから、(そして寄せられる批判に対して抗するだけの戦略や作りこみができていないことを自覚しているから)自分に良い仕事ができるとは到底思えない。

 

だけど、必要な仕事だけするような姿勢では務まらないことは知っている。

建築の設計はそもそも、余白に対する能動性から出発する職能だから。

 

 

これから先のことを考える

 

 

諦念を覆すのは、ひとつのアイデアであると知っている。

あるいは、一枚のスケッチ。

私は、建築家としての思考の習慣をすっかり忘れてしまった。

「やらねばならぬ」ものと、「それをやれさえすればよい」ものにすっかり馴れてしまっていた。

院試、免許、就活、資格、修論、読書。

人生の節目を象る、さまざまな達成ごと。

「表現」にはとうてい、なりえないもの(ら)のために割いたエネルギーと、

そこから人との交流を引き出そうとした徒労を、苦々しく感じる。

 

これから先の人生は、短距離走の繰り返しだろう。

時代と自分との関係性を見つめなおすのもよかろう。

単発の仕事と単発の仕事との間に、連続性・指向性・あるいはビジョンを見出すのも良いだろう。

或いは単に、仕事一つ一つの誠実さから、客観的立ち位置を構築していく生き方に終始するだけでもそこそこの納得は得られよう。(それはあらゆるものの必要条件だと思うが。)

趣味や、自身の考え方や、生活のあり方のボリュームを大きくし、豊かにし、その中身の濃さに満足するような日々を選んでも良いかもしれない。

全てを勝ち取ることはできるかもしれないし、貧困を理由に何一つ勝ち取れない可能性もある。選択する必要さえあるかもしれない。

わたしは、周りの人々の考えに影響されながら、自身のアイデンティティと積極的な在りようについて納得してきた。いまは、誰もそのような他者はいないが、少なくとも学生のうちは。

 

私の生き方は、私が選択した私の環境に依存する。これは私の基本姿勢だ。

しかし、修士以降、わたしは何一つとして、自身の環境に対する選択権を満足に利用してこなかった。そして、実力不足と人柄の欠如が原因で、環境を選び取ることすら能わなかった。

環境の再選択について、自身はもっともっと、「ひと」を頼りにして行動しないといけないのかもしれない。利便性の高いインターフェースや本や知識を頼りにして選び取れる環境になんて、限界がある。

わたしには、「ひと」がいない。これは、建築家は建築家である以前にまず人としてしっかりしている必要があると何度も説かれた私にとっては、永遠のテーマである。

環境と「ひと」と、仕事と、「機会」。これらの(重要な)対象を考えている限り、建築そのものとは遠い位置で自身がもがいているような気になってしまう。

 

卒業が近い。

 

内向的な自分に、「社会を問う」仕事は、向いていない。その意味で、建築家を志すことは過ちなのかもしれない。

一方で、設計を意匠として捉えなおした場合、私にとって建築のプロフェッショナルへの道はおそらく泥沼の道となるだろう。その競争で、私は勝てない。

私の思考は、それなりに論理的に、それなりに微細に、それなりに統合的に、物事を組み立てることができる程度のポテンシャルはあると自負している。手を動かす遅さと、人に会う足の重さがネックなのはわかっている。それは社会に出ても、日々直そうと意識してゆくことにしている。

 

タスクフォーカスのために、娯楽を増やすのはやめるべきだ。

たとえばゲーム、不必要な承認のためのSNS、着飾るためのものごと。

SNSは理念の共有のためにあるべきだ。

 

30歳になったとき、自分は何一つ変わっていないのだろうか。

それとも、それなりに「実績」が生まれてるのだろうか。

その実績に、意味はあるのだろうか。

 

「意味のある仕事にきちんと足を踏み込む」というコミットメントを、修論ではできなかった。踏み込みが甘かったし、浅いし、そして踏み込んだ足を戻してしまったのも自分だ。惜しいとこまで来たのに、卒業できるクオリティで満足してしまった。実際は不満だが、都市に関するセクターと本気で話し合うことに気後れしてしまった。

修論のテーマは、もう少し、踏み込みたい。今の職場の延長線上にはないのだけれど。

 

自身のやりたいことが、「建築」となるとまるで見えてこなくなる。修士の間に建築に関わることができなくて、社会システムだとか環境デザインだとかそんなことにばかり触れてたのもあって、それらの沼にはまってしまうことの問題も見えてきた。

「相手はそもそもわたしの作り出す余白に興味はない。しかし、相手にとって切実な事柄に関して、それを解決するためのファンクションには、経済と社会に対する営業能力のほうが重要であり、デザインが主人公ではない」

本当にそうだろうか?その部分の議論は、研究室ではできなかった。

これらを含めて、私には、生きる知恵が欠落している。

 

 

調べなければいけないことは多い。

お金を稼ぎ始めてから、自分が取り組むべきことについて、

自身に足りていない情報について。

何故自分が垢抜けしないのか、その原因について。

社会常識について。

ひとづきあいについて。

 

 

修論を書いて、卒業できる自分はある程度努力してきた。

これから先、努力しない場合どうなるか(いかに簡単に人生が立ちゆかなくなるか)は、覚えておかないといけない。……いつまでも。