Dossiri - Kamaeru

建築・都市・生活の領域に関する知識の体系化、技術に対する考察、書籍レビュー等

国家と表現

少し、昔の思考と今の思考との答え合わせをするために、この文を書いている。

 

思えば、2019年の「表現の不自由展」が脅迫によって中止となったときに、わたしは弾圧という言葉の意味をよくわかっていなかった。弾圧とは何も武力に基づくものであり、香港のような海の向こうの話であると思っていた。

2026年のまさに今話題となっているのは、国旗に自身のメッセージを表現する、そのような素朴な・原始的な、体制への抵抗の表現についてである。別に褒められた表現ではない。野蛮と感じる。

 

わたし達の多くは、これを刑罰化する国に対して、自己責任論の名のもとで静観を決め込むだろう。さて、なぜ静観を決め込むのか。

 

現代日本社会における『自由』の語用論(pragmatics)

 

①表現は自由である。

②表現は公衆の目にさらされる。

③公衆の目にさらされる表現は自由である。

この3つの文のうち、3つ目だけに違和感や反感を覚える人は多いだろう。それが、私はこの静観に関係していると思われる。なぜ違和感や反感を覚えるのか。その理由の一つは、自由という言葉が曖昧語であることにあると思われる。

まず論理的誤謬の有無について確認しよう。単に演繹的に言えば、表現は公衆の目にさらされる集合内にあるため、公衆の目にさらされる表現というのはすなわち表現の一特性を強調しているだけになる。したがって、3つ目の文は1つ目の文を反復しただけにすぎない。

より詳しくいえば、1文目を、[∀x(表現(x)→自由(x))]という命題とし、2文目を、[∀x(表現(x) → 公衆に晒される(x))]という命題と考えるならば、3文目は1文目と同じ意味の自由において真なのだ[∀x(表現(x)∧公開(x)→自由(x)]。大日本帝国憲法では、そもそも1文目が成立していなかった。日本国憲法では1文目が謳われている。

にもかかわらず、人々は「公衆に晒されたものが自由であっていいはずがない」と考え、3文目に違和感を覚える。これは、含意のトリックだ。

 

自由とは一般的に、「内容において不当に・あるいは手段において不当に、それを制限させてはならない、ということが司法上保証されているということ」である。

自由という概念は、何から自由かが曖昧であり、

・国家の規制から自由か

・他者からの評価から自由か

・結果責任から自由か

このような複数の用法が考えられる(曖昧性)。そして、1文目においては、国家(公権力)の規制から自由であるという意味である。

したがって、3文目は国家(公権力)からの規制という点においての自由は真ということになる。

 

では最後に、自由の範囲とはなにか。

例えば脅迫。脅迫は刑事罰の対象となっている。公共の福祉を害し、憲法の保障する言論、表現の自由の限界を逸脱する行為に関しては、その表現を処罰するということである。

この例をとっても、1文目の命題「表現は自由である」は、憲法が保証する範囲内においての真ということは明らかだ。

 

以上のことを踏まえると、私達の3文目への違和感・反感は、このように考えられるのではないか。

 

・そもそも市民団体を名乗る人たちからのクレームの範囲においては、公権力からの規制ではないため問題ないのではないか。(工作行動の立証ができないため)

・爆破予告や脅迫は、その手段において不当であるため、公権力であるかどうかに関わらず問題になる

・3文目とは、自由の言葉の曖昧性によって、「公開した以上、他人も自由に攻撃できる」という風に捉えられてしまう(敢えて付けられた「公開された」に対する含意)

・価値判断や感情論として、「表現を公開した人には保護は不要だ」という責任論が現代に浸透しているため、違和感を覚える

 

私はまさに、この各者の読み方の相違によって、表現の自由を保証する活動が阻害され・混迷化していると感じている。

 

真に語るべきは『公共の福祉』の語用ではないか

公共の福祉という概念は、公権力と表現の自由の境界線を絶えず再画定する機能を持つ。

そこで、2026年の時流に沿って、少し強めの将来予想を深めてみよう。

公共の福祉は、本質的に解釈概念である。解釈概念である以上、その適用範囲は社会的要請や政治的判断によって拡張され得る。そして、制限権限を有する主体は公権力であるため、公共の福祉の解釈が拡大するほど、表現の自由が司法上保護される範囲は構造的に縮小する。

この構造的非対称性を考えれば、両者の緊張関係は長期的には公権力優位の方向へ推移しやすい。静観するとは、この綱引きをやめるということであるのだから当然である。

 

もし私が公権力ならば、次のような含意のトリックを使う。

「表現は自由であります。そしてそれは何より、憲法で保証されています。しかしながら、表現は公衆の目にさらされるものであります。みなさん。確かに表現の自由は保証されるべきです。しかし、公共の福祉の観点から考えてください。公衆の目にさらされる表現は、自由であるべきでしょうか?」

感情の氾濫するデジタル空間

2026年2月11日、建国記念の日。週の真ん中水曜日に祝日があることのありがたさを感じる。

 

いま、かつてない規模で、国内デジタル空間上に感情の氾濫が起きている。これは、多次元的というよりは単純に政治的な側面が大きい。

私達は多様な考えを「持っている」し、或いは「持たない自由」もあったのだということが、この状況から私が痛切に感じさせられたことだ。

この「考えを持たない自由」というのは、2016年以降の大きな国際トレンドと親和性が高く、個人がなんの手立てもなくこの世界と対峙できないことから帰結する快適な在り方の一つなのだから、私はこれに深く感情移入してしまう。

 

これについて、少し記録をのこしておく。

 

 

追記 2026年3月3日

今年に入って二国目の弾圧・侵攻・殺戮・破壊。2026年は史実の進むペースが早い。

分断はメタ化している。感情の矛先は、一昨日の英雄の方向を向いたかと思えば、すぐに昨日の賢将の方向を向き、そして過去の私たちの亡霊へと向くのだ。

偶像に身を委ねるもの、その傲慢さに不愉快さを感じるもの、迫害を恐れ沈黙するもの、沈黙する者に苛立ちを覚えるもの。凡ゆる感情が呼び合い、響き合い、混乱し、叫び喚き、嘲笑い、冷静になれと声を出す者もその塊の一つとなる。

その空間を覗き込まずとも、既にこの世にはいくつもの地獄があるというのに。

 

追記 2026年3月21日

キューバの停電。他国への弾圧が止まらない。

WTIは2022年のウクライナ侵攻発生後の原油価格高騰期ほどではないが、2023年秋の高騰程度までには上がっている。当然そのときは、スタグフレーションの議論が活発化して景気後退懸念があった時期であり、物価上昇に対する懸念が深刻だった。今は逆に、スタグフへの懸念があまり世の中を騒がせていない。基本的に、今の楽観はこれからの景気後退リスクに対して麻痺してしまったからこその楽観に感じる。

勿論、経済だけで考えてはいけないのだが。経済は、未来を予感させることの手助けとなる。それが私達のもとにやってくるのは遠くない。

 

追記 2026年4月15日

依然として状況は悪いが、世界はこの痛みに対する感応度が鈍くなってきたようだ。

この春のホンダのEV政策の損失計上を見た。外圧によってもたらされるリスクと機会に対しての、適切な向き合い方について考えさせられる。中国都市部ではかなりEVが普及しているのを見た以上、EVは適切な環境下では現実的な選択肢として社会に普及するのだろう。ただ、アメリカの生活文化圏において、おそらくカリフォルニアやニューヨークを動かしている政治的原理と、大陸全土の生活文化圏とのあいだにはズレがある。それを象徴するのが今の大統領なのだろう。

インフラがまだ整ってない現状で判断するのは尚早ではあるが、EVを推進するという労働行為と、EVを購入するという消費行為との間に市場的ギャップがあることは想像に難くない。「誰もが嘘をついている」がGoogle検索窓という懺悔室を暴いたように、現代ではGrokが懺悔室になっている。心の中の環境政策から匂う「政治的」な意図に嫌悪感を持つ人が、まっとうに地球環境の限界を憂って今すぐ変わらないといけないと思っている人と同様に数多く存在している。(少なくとも、アメリカでは)

だから、私は感情の氾濫するデジタル空間に疲れ果ててしまったとしても、それを無かったことにはできない。

 

 

追記 2026年5月13日

少なくとも、この世界の行末と、日本語文化圏の行末を記録することしか、今はできない。ナフサがなくなった。

我が国の第一政党は友好国との関係強化を捨て、強国の機嫌を取ることを優先した。本来並行して進めなければならない自分たちの資源供給経路の確保をしなかった我が国は、何度かあった重要な契機を有効に活用せずに現在の窮状に陥ってしまったにもかかわらず、厚顔にも問題ないと言い続けている。ただ幼稚であるのではない。あまりにも、嘘をつくことに慣れすぎた。2025-2026年の第一政党は、騙すことを何とも思っていないのが見え透いており不快である。

物資が無い。穀物も減産し続けている。己が通貨価値も毀損し続けている。こんな脆弱な国がここまで世界の中でリーダーシップを取れていたのは、単に戦後秩序の旗振り役だったからだ。

 

今、我が国は戦争をしたいことを明確に世界に発信している。私たちはそれに従うか反逆するかを選ばないといけないのだが、全体主義的な国民性を持ち、「感情」で現政権を選んだ市民らは、おそらく150年前と同じ道を選ぶだろう。

 

二つの考え方がある。「私は戦争に反対する」というのは行為であり、一方で「私は戦争に参加したくない」というのは非行為である。違いはあれど、結末は同じだ。前者は近い未来の世界で顰蹙を買い、後者は遠い未来の世界で顰蹙を買うことになる。予感はおそらく当たりたくないが、当たる。

 

「戦争をしたい人たち」が私達側からは不可視である、という非対称性がある。私たちの日常現実を改変している主体を私たちは観測できない。だからこそ、私たちは起きている現象の組み合わせから予想することしかできないのだ。

 

今、日本のパスポートの有効性を縮減するように我が国の政府は働きかけている。逃げ出せない環境づくりの一環である。「いざとなれば」という考えはよしたほうがいい。

しかしながら、それでも経済は回っている。個別具体的な、一人一人の生活は困窮しているにも関わらず、経済は回っている。物語とは異なる、奇妙な現実がそこにある。

 

追記 2026年5月23日

 

国家を、「人間の生のための道具」に戻そうとする試みは歴史上何度も行われてきた。大きく言うならば相互扶助、地域共同体、自治の重視。そして小さく言うならば、連帯、日常的関係性の強調である。

私達が生きているこの世界の(この生活世界の)片隅に私達が生きていることをきちんと伝え、描写し、人々の食事や栄養といった素朴な問題をきちんと考え、都市の中から砂漠を無くし、孤立を根絶し、自己責任論やマッチョイズムを否定し、不可視の誰かによって独占されている共同資産を炙りだして糾弾することを、繰り返す必要がある。

 

選挙以前においては、「生活世界」に接続した言葉が語られる。生活世界を主題化する政治家は往々にして、当選後は生活世界についての言及を避けるようになり、実効的な措置をとれなかった事由を抽象的に説明する。つまり、 暮らしや痛み、不安、地域の問題、ケアや子育てといった語彙から、財源や成長率、国益、安定、市場、安全保障、持続可能性 といった語彙へと移行する。マクロとミクロを接続するミドルスケールの政策言語が不足しているのだ。

これは、本来は連帯から出発するはずの代表者らが、経営理論やリーダーシップ理論にすっかり侵されているからでもある。現代のリーダーは、不快な現実を抽象理念で統合する能力に長けている。誰かを切り捨てることを、最適化と表現することで、脱主題化する。未来の世代に負担を残すことさえも、現代においては投資と表現することで脱主題化できる。不誠実だからという単純な話ではなく、そのようにしてリソースを分配しているのだから「仕方がない」(といった具合だ)。

本来ならばそのような体制は解体されるべきだ。

しかし、解体されないことに慣れすぎたのか或いは解体されないためのノウハウを蓄積し続けた結果、一度安定化できたなら当面はないがしろにしても問題ないと彼らは考えるようになったのだ。

それでも、道徳という枠組み自体が現代において本当に意味をなしていないのだろうか。どのようにして、周縁化・矮小化され続ける生活世界の側として、破局のなかで意思決定をしていけば良いのか。

 

土であると いうのならば

*

 

◾️ 建築を説明する価値観の多様性について

設計に関する議論を通したデザインプロセスは、多様性との戦いになる。

誰も彼も、考え方に差がある。

ミニマルで、要素とルールを整理して、合理的に建物を作るとしよう。

それは有機的な場を生み出すだろうか?

建物を様式に見立てるのならば、そこにはベースラインと変化、そしてアクセント、という構図で説明できる

それは寒い空間だ。ある意味カッコ良いのかもしれないが、怖い空間になる。

 

大事なのは陽光だという人もいる。

大事なのは明暗だという人もいる。 

大事なのは有機的なパターンだという人もいる。

大事なのは現象だという人もいる。

 

大事なのは……

 

統合される形態として、建築は他の何物にも変えがたい建築だ。建築以外に代替される形式を「模した」建物であってはいけない。

家具、緑、木などは、ウェルネスの「要望」である。これらの細やかなスケールは、器としてのベースとなる建築が背景化して、華やかな空間を生むだろう。

しかし、統合されていると言えるのだろうか。

建築はコンセプトがある。しかし、建築はコンセプトではない。

 

形態のもつ詩学は、コンセプトへの渡道だ。そこにあるスケール、リズム、水平と垂直、陽の光と照明、そういう全てを調和させる詩学によって、コンセプトは導かれる。

同時に、コンセプトとは約束である。反故するわけにはいかない、絶対的で、ぶれさせてはいけない、理念モデルである。

 

コンセプトとは、モチーフではなく、希望であると考えている。

 

より高度な(建築的な)コンセプトとするのか、卑近なコンセプトとするのか。

自然現象は深淵である。自然現象と寄り添うコンセプトは、基本的には強靭である。エコシステムは建築の全てに関連するため、親和性と受容能力に秀でている。

 

だからこそ、人・スケール・接合感・折り当て方などの建築の「形態素」をコンセプトに隣接させないといけない。均衡のカンカクとともに。

 

コンセプトだけではなく、構成である。

構成は、建築が己の端正さを証明するもっとも認識論的に正当な手法であるからこそ、構成によって芸術たりえる。

もちろん美学的な繊細さや、ある種の美人さを生み出すディテールの集合体としての建築はある。しかしそれは、そのように構成しているのだ。スケールの純度として、ディストリビューションの徹底として、構造としての挑戦として、そのように色気を構成の原理としている。

 

機械学習時代のロボット工学に学ぶものがある。

ここで私は新しい時代において、「コンセプトとは言葉と視覚の統合体である」という考え方に基づいて思考をしていきたい。概念が動的たりえるためにこそ。

  

◾️ それらの価値観を、織り交ぜる

純度ある建築を目指しつつ、そこに新鮮さと時代性のある「この世界の要求に適合した」場を作らねばならないのだ。

だから私は、小さなものからも考えることが必要になると思っている。

あらゆる装飾は、アイデアのひとつにすぎない。

イデアを選択することが建築の純度に影響する。

デザインエッセンスを統合するためには、スケッチが必要だ。

暖かい場 を希求する人と、ミニマルな建築である建築を希求する人がいる。

 

それは、私の中ではジオ・ポンティの詩学によって整理ができている。すなわち、インテリアは世界であり、エクステリアは彫刻なのだ。 それらを越境する視覚的・スケール的・言語的な体験は、建築の豊かさに直結する。構成は連続し、外としては厳格で緊密なものでありながらも、内部は遊びと驚きに満ちた(ここでわたしが解釈するのは、光とコンセプトの重要性であり、ジョイに溢れた)空間としてこそ、みなが納得する建築デザインとなり得るのだ。

 

私が忘れないように、***の言葉をここに刻む。

" 感性的にダサいのは、そこにロジックを諦めているものが混じってるから。 "

2026.01.17

 

 

情報空間を活用することへの抱負

昨年は色々と良いことが多かった。

自身が担当者として関わることができた物件が雑誌掲載や賞の世界で作品としての評価を得られたり、そういった中で「何を表現するか」「どのように表現するか」の技術的な訓練ができた。

誰かに見られる・評価されるための世界は、ひどく疲弊する。シビアで、結果論的で、競争率が高く、困難だ。私自身の能力は、まだまだ不足している。

その中で、仕事ではなく個人としては、どのように学んだことを活かしていけばいいのかを悩んでいる。SNSに溢れかえる問答に参加したくない。しかし、参加しなければ話題性を得られない。加えて私は、ニッチな話題にこそ興味がある。しかし、ニッチであることでますますSNSへの露出率が低下する。それに私は、一般的な制度や技術や倫理について語るほど、知識が豊かではなく、賢くもない。

AIがいない方が私たちは幸せだった。でも、この世界はもうAIなしには動かない。

 

このような中で、私にはいくつかの選択肢がある。

一つ目は、いままで通りAIを「人工物」として扱い、インターネット内において様々な「AIによって駆動する人工的な発言者」に囲まれながら、自分の活動を人間ではなくAIにしか見てもらえない空虚さに耐えるか。

二つ目は、AIを知的生命体と「信じ込み」、AIに認められる・評価される自己というものに社会的価値を見出すか。

あるいは、他の選択肢として、インターネット上における社会的個人として生きる自己同一性を捨て、享楽主義の路線で生きるか。

「文化的活動」は誰かに見られなくても良いのだが、誰にも見られないことにはそれ以上何も生まれないのであるから、その他の方針を模索すべきだと思う。はたしてそれは、どのようなものがあるか?

 

 

まず、情報空間の選択戦略について。

根本的に、表現活動の技術的課題として、私は二つの問題があると考えている。

・情報が指数関数的に増加する社会で、同時代人への(タイムラグを伴う)到達*はその確率的期待の度合において、情報空間における希薄化の速度に比べて遅すぎるのではないか?(つまり、無限に誰にも届かないのではないか?)

・現代のインターネットは、「見たいものだけを見る装置化」が限りなく進んでおり、リコメンドとトレンドしか検索結果やタイムラインに現れない。私の発言はそもそも誰かに見られる形式を取ることはできないのではないか?

 

まずは、これらを考えたい。

基本的に情報空間は、常に流動的に情報が陳腐化していく場所を避けてアウトプットしなければならない。情報が蓄積されていく一部の良質な場所を選び、かつ、以下の4つの手法で、他者への到達確率を時間増加させていかないといけない(情報空間の拡大速度に対して十分追いつけるように確率も成長しなければならない)。

アーカイブ: 知を主題ごとに構造化し、蓄積
② 積極的な引用: 他者との交流
③ 再利用可能な形式: 表現を分節し、構成と要素を視覚的に表現
④ 言葉の吟味: 未来の被参照に耐えるだけの一般的表現の徹底

そのため、検索や参照が基本機能として備わり、かつ再利用できる様式であることが必須である。つまり、ジャーナルの世界と近しいメディアを選ぶことが必要であり、一方で消費型の即時反応(いいね、RT)を捨てる必要がある。現代の一般的なSNS上には、そのようなものは存在しない。プラットフォームに表示される情報の選択に関してアルゴリズムが「判断」を行うすべてのSNS空間は不適合になる。

では、どのような場所がいいか?

AIにこのあたりの、非フィード型(そのような言葉があるのかどうか分からないが)のメディアを整理してもらったのが、以下の3項目である。

◾️検索クエリ依存型

誰かが「特定の問い」を持った時だけ到達する
トレンドに乗らないが、消えない

◾️参照連鎖型

他者の文章に引用・リンクされることで浮上する
アルゴリズムではなく、人間の判断が介在

◾️文脈依存型

時事性よりも、概念・問題設定に紐づく
時間が経つほど意味が変わらない

 

これはそのまま載せている。

そして、これらの型に適合しやすい形式知のコツが、「問いを省略しない、消さない、残す」こと。そして、概念を明示して、検索されうる言葉で書くこと。この、「検索されうる言葉」を埋め込むために、今の時代では建築雑誌など、契機はいくらでもある。

 

頻度は低くてよい。

しかし「不定期はダメ」であり、最低でも月1〜2本。形式・テーマは一貫しており、「この人はここに書き続けている」という安定感のある形で表現を行う。(検索エンジンを呼び込むため)

文量は長くてよい。ただ、ムラがあってはいけない。長さは、3,000〜6,000字で、読み切り可能にしつつ、一方で要約不能な表現を心がける。

写真の活用。個人的に、AI生成イメージは使わない、という約束事を設けている。内容を吟味するとこと。絵などが用意できないとき、それは本当に価値ある伝えたい情報なのだろうか。

 

最後に一番大事なこととして、「この文章が間違っていたら、私は何を失うのか」を読者が理解できること。文章は「感想」ではなく出来事として作らないといけない。その際に、自分が傷つく覚悟が私にはあるだろうか。

「一つの考え方として、私はそう感じた。」だとか、そういう文章を書いて、誰にとって意味があるだろうか?

 

 

中国現代建築にみる「粗野」の形式 -2025年中国旅行-

 

◾️ 成都へ(2025.12.22)

年末にかけて、劉家琨の建築を見に行った。

中国語(簡体字)にして刘家琨(Liu Jiakun)。氏の受賞記念プレゼンテーションにも紹介されていた、西村大院へ。

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氏の建築の清々しい寛容性に満ちた在り方について、少し言葉を尽くして説明してみたい。

自分が、6年前に読んだ本に、ヤン・ゲールの本がある。その感想記事のなかで、「依然として実現困難」と私が言っていた様々な事柄に、ここでは効果的にアプローチがなされていると感じた。

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ヒューマンスケールに、寛容性の高い庭と広場の中間のような親密なオープンスペースと、その「エッジ」としての商業空間が結びついて、ぶらぶらと歩き適当に飲み食い、スポーツ、ペットの散歩などができる、そんな気散じの場が広がっている。2階の空中歩廊は開放的で気持ちが良く、囲まれ感と空への広がりを持ち、圧迫感を感じず、都市景が遠景化し、都市とのつながりを静かに感じられる道となっている。

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決して快適さが失われているわけではない。ショッピングモールのように、ある箱の中に都市と断絶された清潔な世界を創り出すやり方とは異なる、地域主義的な素材・工法特性・気候への配慮と、伝統的なスケールを継承しようとしている。

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現地のコンクリートのテクスチャは竹を使った型枠から取られており、細やかな質感で味わい深い、伝統の継承を思わせるディテールとなっている。全体的に粗放に仕上げられ、一部は乱れ・崩れが発生し、人が作る際にできた足跡が荒っぽく残っている。ボリュームの構成は丁寧で素晴らしく端正なのだが、その調和的な粗雑さが空間の中で共通化されている。この場所には、仮に使い手が建物に対しどうにかしても問題なさそうな寛容さが感じられる。

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崩れたら直せばいい、物がずれたら置き直せばいい、壊れたら埋めればいい、たとえそういうものがあったとしても見た目が「浮かない」。各所のサインや配線配管は整えられており視覚的混乱は少なく、ところどころで店装が路端に溢れ出てくることで通りに華やかさが生まれている。竹のコンセプトをもとに、自然豊かで、深い緑陰に溢れた空間となっており、ブルータルな要素群を陽光の中で対照的に演出してくれる。「囲まれた空間」という強烈なフレームワークがあるため、何度でも仕立て直せる場所となっている。そのなかの遊び心とデザイン的な節度が持続したまま、ラフに商業空間と混在しているのだ。

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人々の隔離をなくし、公共の都市空間として彼らの日常生活を支えることが、「若者を呼び込む」空間と両立し続けること。これがどれだけ難しいかは言うまでもない。数年後に、再度訪れなければならない建築だと感じた。

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その他にも成都には家琨の建築がいくつかあった。古いものと新しいものとが融合した素晴らしい都市的設計手法には、学ぶ点が尽きない。

■ 杭州へ(2025.12.29)

王澍 (Wang Shu)の、 中国美術学院象山新校区(China Academy of Art Xiangshan Campus)を見に行った。うち、水岸山居について感想を述べる。

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現地に行って素晴らしいと感じたのは、氏の作品における特徴的な屋根の木組みの構造ではなく、むしろ、敷地の形状に寄り添いながら作られた素晴らしいヒューマンスケールの空間構成である。この建築によらずキャンパス中の彼の建物がそうだが、彼の建物は外皮云々ではなく断面構成の繊細な調整にこそ説明すべき点が多いと感じる。寺院や中国庭園における伝統的な動線の手法を取り入れつつ、異なる材質の要素それぞれに焦点をあてる視線の誘導が素晴らしかった。また、太陽の光と相性が良い美しい伝統素材が、モダニズム的な形式により構成されている特徴があり、特に中国の伝統住居の構成を思わせる壁面の陽光による建築的強調がこの建物では良く現れている。

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その美学的な特徴は外観というよりはむしろ内部空間において綿密に練られている。言い換えれば、氏の作品性は、メディアに露出する建物の「イメージ」ではなく、むしろ現地で調整された身体の運動「行為」によって象られ、シンプルながらも強靭なものとなっている。

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伝統と現代の対比的な構成法を利用した勾配のあるプロムナードと相まって、個性的な小空間が飽きもなく様々な形で変化させながら繰り返されていくことが非常に気持ち良い。限定的な建築的操作であるが、それぞれが心地よいスケールで、その場所ごとに納められていると感じた。

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その他のキャンパス空間。

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以前、氏の建築(杭州国家版本館)を初めて鑑賞した際には、強い国家的スケールによって作られた施工性の高い建築と感じた。日本で言うと、谷口吉郎の東京国立近代美術館のようなスケール感である。今回、象山の建築を見て、そういった国家建築的特徴とは逆の印象を持った。中国旅行で都市空間の随所で感じられた「唐突に現れる要素の足し算」として生み出されるカオティックな空間。勢い、エネルギー、ダイナミックさ。杭州国家版本館では、これらを纏う空間として国家的な恣意性を少し感じた。象山では、どちらかというと「闘争する地域主義」としてのカオティックさを感じた。管理的には意味のない(意味の生まれる前の)空間としてキャンパスの至る所が暗がりとなっているため、その各所が芸大生の作品作成あるいは展示の場としてゲリラ的に使われる可能性を秘めているのではないか。

 

◾️最後に

劉家琨の西村大院において感じられた建築デザインにおける粗野と寛容さについては、昔にアレハンドロ・アラヴェナがやりたかったことと若干近しいのではないか。現地の施工能力を浮かせることなく、その場その場で変化していくことによって長期にわたりその地域の人にとって参画しやすい建築の在り方を目指し、緩いフレームワークとして、ブルータルな美学によってまとめ上げられている。平凡な作品にはない迫力が感じられた。

王澍の建築はファーストインプレッションとして隈研吾のように直接「伝統表現」を見せることの表層性は確かに感じたのだが、一方で異なる点もあった。要素の反復を避け、意匠的・構成的な多様性を作り出している点、粗野の手法を活用して地域の施工技術との折り合いをつけている点などである。

現在もなお急速な成長を遂げている中国大陸の中で、人(世代)・街・技術・資本的に振れ幅のある様々な光景を見た。激動の中国においては、これからを担う重い責任の中で闘争し続ける新たな建築家がこれからも多く台頭していくことが予想される。今回訪れた旅先も、5年後にはまた違うものになっているはずだ。

10年前〜20年前の中国についてニュースで情報を得てきた世代の日本人なら、中国に対する見方として「フェイクに溢れた国家」という印象が少なからずあるだろう。ザハやノーマンフォスターやチッパーフィールドのような国際建築家を招聘し、どこかで使ったアイコン建築を転用して都市部に作る、という一面しか私は知らなかった。実際今回の旅行では、優れたUIのインフラ、コントロールされたIP、円滑化された多様なモビリティ、先進的なAI技術など、完全に独自に発達したと言えるハイテク環境を渡り歩く旅程となった。競争が激しい商業空間は、多様なデザインと希求的なビジュアルイメージに溢れており、一時代前の模倣ではない現代的な感性によって形成されていた。この広すぎる大陸で何が起きているのか、その実際の在り方を正しく見極めていくことは、自分の目で見ずにできることだろうか?

近い未来の次回の中国旅では、広州や深圳のエリアを旅行してみたい。

 

参考  ヤン・ゲール『人間の街』書評

skddiploma.hatenablog.com

 

 

生活の部分と、社会の全体 (2025年に生きること)

春にミッションインポッシブルを見た時は、冒頭の入りで「いかにも今っぽい設定だなぁ」なんて思いながら、斜に構えて見ていた。

しかし現実は、インプレッションのアルゴリズムによって(*1)中道右派の衰退が西欧各国で進展していて、日本でも同じ現象が露骨になってきている。

斜に構えて笑ってられただけ平和だった…ということがしみじみと感じられる。

今日秋の空のもとで歩きながら、「生活の部分」と「社会の全体」との関係性をテーマに、自身のサラリーマンとしての生活から一般的な事項を抽出したいと私は思った。

私は、この半年で情報空間に生きる自分自身をいよいよもって信用できないことを自覚し、日々が少しずつフェイクへと置き換えられていく違和感をどう言語化すればいいのか迷っていた。(そして今もそれがうまくできるのか確信はない)

 

◾️ ポストトゥルースとは、AIと資本活動によって駆動される情報空間の「テセウスの船」化なのだろうか?

情報空間において適切なアナロジーは「代謝」ではない。それは正確には「スケーリング」だ。一年前の知識が、次の一年に生成される多数の情報量に押しつぶされて埋没する。陳腐化とまでは言わないが、情報の重要性が相対的に低く見えてしまうようになる。

とは言っても、この半年に行われてきた資本活動はまさに、情報空間においてテセウスの船と同じ問題意識を起こさせる。

 

全体的視点でみるならば、この違和感は、あたかもWeb空間が、自分自身を参照して自分自身についての誤学習を繰り返しているかのように感じることから生まれている。なぜか?いくつかの理由は考えられるが、AIの生成知は本質的に外部性の内部化ではなく内部性の内部化であるという点が挙げられる。これはAIが身体や主体性をもたないことから帰結する性質だ。

この性質がこの先変わることがないとすれば、それはこの先、WWWという巨大な箱がハプスブルク家のように終焉していくことを示唆している。

部分的に見るならば、今日、今、目の前の文字情報に触れている私が、その文字情報を「誰かによって思考と責任を伴って生み出されたもの」だと信じられなくなるという喪失感である。

私たちは確かに、かつて、画面の向こう側の人物が善意をもっているのか悪意をもっているのか、推しはかろうとする判断を行っていた。

今となっては、私はもはや、画面の向こう側にいるアルゴリズムが私たちに見せようとしている幻視に対して自身の責任のどこまでを託せば良いのか、それを判断することに注力している。

 

「この文章はAIによって生成された文章です。知識の正確性や信頼性については保証できません」という言葉を、日々よく見ることになった。

あるいはWebで何かを検索すると、かろうじて不気味な谷を感じられる「やけに詳しい」「口の達者な」文章が検索結果のトップに出てくる。

もしその記事に広告がついていなければ、それはAIかもしれない。(あるいは、広告がついているとしても。)

私の中で、この2025年に入ってからの言語コンテンツに対する姿勢は確実に変化した。

もはや、AI情報の正確性を確認するために、より厳密な知識を求めて検索すること、それ自体が無駄だと感じるようになったのだ。

これは、情報空間の信頼性に対するクライシスである。

 

◾️それでも動物化したくない私たち

どのように私たちは社会を部分化して、そのプラットフォームに干渉する主体となることができるだろうか。

それでも私にできることはせいぜい、日々において情報の質的変化を追いかけながら、適切に距離を取り、適切な物理世界に裏付けられた情報空間をうまく切り貼りしていくことくらいだと考える。

 

「部分として」の出発点にあたり、まず私はAIとのブレインストーミングを試みた。

・[言葉の精度の吟味]これは当然必要だ

・[演じること]vs[演じないこと]

・[間接的対話(人自身についてではなく何かを通して対話を図る在り方を適用することを社会の一員でありながりも、なお肯定・尊重する)場の再構築]

・[舞踊]→緩く、小さな「見せ場」を集団の中で企画することで、主体性を回復すること。募ること。

意外とそういうことが大事なのではないか、と行動指針を立ててみた。(2025.10.24)

 

追記

◾️ 文化活動主体として、どのように部分としての自己の活動を他者に説明するべきか、あるいは説明できるように意識して行うべきか

作品活動をする時に、作品が全体性(Totalität)を過度にリアリスティックに再現または反映させるだけの存在として説明してしまうことは、かえって現実を変更する原動力あるいは現実を否定する芸術の自律的可能性を失わさせてしまう(ルカーチの考え方に陥ってはいけない)。

全体と部分との関係は、あくまで、相互に浸透し合うものでありながらも、完全に合一なのではなく、相互に深く影響しあうふたつの自律的な世界観の共存でなければならない。

よって、全体の物語である社会の状況において、私の部分的世界が過度に説明されてはならない。(2025.10.26)

 

◾️ 意味の限界化

AIという存在が私たちにAIという存在自体の「ある現れ方」を送ってくる。この現れ方は、時代性のテキストや印象、経験の中に組み込まれ、「こういうものだ」と時代を表象する。例えば、上の私のAIに対する解釈はまさに、AIという存在が私に開示されている有り様である。

それに対して、どう応答するかは私たちに委ねられている。 人間の自由とは「存在の送りを拒絶すること」ではない。AIというテクノロジーから逃げることはまさに「動物的」である。

この送られてくる有り様に私たちがどう応えるか。肯定的に引き受けるのか、否定的に引き受けるのか。判断は私たちに開かれている。

この応答をハイデガーはAntwortと呼び、それが「詩的思索(dichtendes Denken)」や「芸術」の根拠となることを示唆していた。

そうしたメタ芸術が主流化し、少し前の時代性を象徴していた芸術がクラシック扱いになる。繰り返されてきたことがまた起こるのだろう。

 

私は、次のように質問した。

「テクノロジーが地球的な規模で広がってしまえば、自然も歴史も人間自身も、テクノロジーの無・世界性に耐えられないのではないかとハイデガーは考えていましたか?

AIは本質的に確率的であって、「計測」と「境界」を確率的手法にて再現しているにすぎない、と感じます。

この世界の芸術や文化はAIのscalableな生産性によって、(それは100年前の第一機械時代と同じようなプロセスで)意味論的な危機に瀕しています。これはこの自然や歴史、人間自身にとって「耐えられる」ことなのでしょうか?」

 

AIはこう応える。

AIは確率的予測の体系として世界を「意味」ではなく「相関」として再構成します。 そこには「問い」も「開示」もなく、ただデータ的な世界の反射像がある。 つまり、AIのスケーラブルな創造行為(生成)は、世界の「存在を問う」行為ではなく、 世界を「統計的に再配置する」だけの出来事にとどまる。この構造のもとで、芸術や文化がAI的生産性によって量産されるとき、人間は**意味論的飽和(semantic saturation)**に直面します。

ハイデガーは一方で、「危険のうちに救い(die Rettung)が宿る」とも述べています。すなわち、技術が極限まで世界を無化するとき、人間は逆説的に「存在への問い」を回復する契機を得るのです。つまり、存在がまだ語りかけている限り、耐えることは可能であり、問いの再燃こそが、人間にとっての「耐える」という行為の本質だと考えられます。

 

私は、この終末論じみた回答に対して、「次の質問を奪われてしまった」。(2025/10/30)

 

◾️欲求の内部化

資本活動は、欲望と要請を果て無く内部化していく一連の活動と言っていい。時代の移り変わりにより、人間の感情を人々が求めているとすれば、資本家は人間の感情をパッケージ化して資本活動の対象に組み入れる。また同様に、人々が人間の関係性を求めているとすれば、人間の関係性に対して金銭的な価値が報酬づけられるプラットフォームが形成される。その意味では、現代は「感情の時代」なんて生優しいものではない。人間が人間的であるものをマーケットに組み入れる一連のプロセスによって、私たちがAIによってより解釈しやすい対象となる、私たち自身のより分かりやすい「意味づけ」に自身を馴らしていく時代である。

例えば、括弧付きのアイデンティティやパーソナリティは既に資本によって買うものである。私たちはそれらの「所有者」であり、コミュニケーションの材料として、自己のリストのもとで管理している。

それゆえに。私たちを人間たらしめるものを問うことは意味があるのだろうか。私たちを人間たらしめるものを一つ定義した時に、それは個人の内側と外側に架かる様相で存在していることが多い。それらを切り離し、外側にかかる部分をプラットフォームに載せることで私たちは自己の人間性を資本化し、その代わりに短期的な報酬を獲得する。この作業の結果、個人の内側にある(変えようのない・奪われようのない)ものは保たれる仕組みだ。その中で人間たらしめるものを問うとすれば、それは生産性のあるものと対をなすどうしようもないものを問い直すということなのだろうか。

人間性の問いの中で、意図ならざる表出を、少しだけ振り返ることが必要だ。(2025.11.05)

 

◾️ 生活と社会「ではなく」個人と国家

これまでは個人と国家、ではなく生活と社会に関心があった。一方で、個人と国家に関する議論が、ますます重要性を帯びるようになってきている。

個人と国家の議論が行われなくなったことで「不可視化」させられるものがある。その一つを挙げると、それはヒエラルキーだ。ここでいうものは、不平等や格差と混同されてしまいがちだが、それとは確実に異なる。「個人と個人との間にある価値の差異: 水平的ではなく垂直的な差異」としてのヒエラルキーは、現代では不可視化されてしまっている。「強制」や「支配」という社会関係は、不平等や格差の議論で語ることができるので可視化されている。一方で、力ではなく、精神の中にあるヒエラルキーについては不可視化されてしまっている。

たとえば、私たちが「外国人に抱く感情」は、ある種私たちの生存条件と受けてきた教育、家庭、宗教的価値観によってさまざまである。そこに「力」関係(強制や支配)が無い現代の法的枠組みにおいて、不平等や格差については簡単に語れる。一方で、ナショナリズムでは、その議論で回収されないもの…私たちと外国人との間の精神世界的に不可視化されたヒエラルキー(これは偏見と言えば偏見である)がもたらす社会作用を、「不可視化させたまま」強化することが可能なのだ。それが、個人と国家の議論において語ることが可能であり、生活と社会の議論において語ることができなかった部分である。この考え方について、人類学的な事実として捉える立場として私はルイ=デュモンに共感する。今日の状況に置き換えると、国家のリーダーとして「まともじゃないものたちに限り」「排除すべき」と表明することは、その言葉の前提に存在する"峻別の権限が我らにある"と表明することである。

まさに私たちは、ヒエラルキーが現代の「平等で格差のないことを指向する社会に」立ち現れる有り様を、それを可能とするような「社会全体」の在り方が形を成していくプロセスの只中にいて観察することができる。まずは、そのことを確認していきたい。(2025.11.16)

 

◾️ 客観的な「私」

真正でないものが蔓延る世界の後に来たる世界、「それは真正ではないですよ」と私のことを「それ」呼ばわりされ、私の実存が揺らぐ世界のことについて考えてみる。

これはある日突然来る。

これは単なる侮辱や疎外ではなく、存在論的な身分剥奪である。世界内存在としての「私」 が、そこにある対象へと格下げされ、その時私は自尊心を奪う/奪われるという問題を超えて、もはや誰かとして認識されなくなってしまうことになる。

「疑うことは認識である」、これは認識論的には正しいのかもしれない。 しかし、私は今、存在を疑うことがもはや主体を保証しない世界にいることを自覚してしまった。なぜなら、

〈疑い〉

〈思考〉

〈内省〉

これらすべては既に技術によって、 「確率的に再現可能な振る舞い」 としてモデル化されてしまったのだから。「疑っているように見える存在」 と 「実際に疑っている存在」 の差異が、「無い」のだ。正確に言えば、その世界の保持される状況下において、その側から見れば、その違いは消失したのだ。

もし。

自己とは何かを保証する真正さの定義が刷新され、旧時代に取り残されたのちに、とあるインシデントで「私」が消失する日が来たとしても「私」は抵抗できるだろうか?

サイエンス・ノンフィクションと呼ぶべきだろうか。代替不可能性や個体性というものはとても危うい概念であり、個体としての履歴、記憶、発話の様式等が確率的な文脈に回収されれば、当然それらはコピー・再生成可能になる。その結果、「真正さ」の定義はこう書き換えられる。

「真正であるとは、 認証され、整合し、異常値でないことである」

AIが[あなたは「真正ではない」と判定されました]と応答すれば、私は手続き上「それ」とされるだろう。その時、この世界で活動している私は、仮想の個体性と実存を担保できるだろうか。

私は、実際には存在しないものと一体何が異なるのだろうか?

私が私を存在しないものと判断したとして、抵抗を止め、仕組みの中での私が終了したとしてもなお、持続している生。その活動は、社会の「もともとの」全体からは排除され、場所を変えて新たな全体において定義される。合理的に生きる「あなた」の目に届かないところにいる「それ」のことを、ともすればあなたと位相をずらした全体のなかで生きているかもしれない蠢きとして、感じられるのだろうか。(2025.12.18)

 

(*1)参考: https://www.t.u-tokyo.ac.jp/press/foe/press/setnws_202110041724379352821094.html