Dossiri - Kamaeru

建築・都市・生活の領域に関する知識の体系化、技術に対する考察、書籍レビュー等

なぜ人は指示なしに動けるのか - 『責任』とデザインの事例から (2)

 

(1)の続きです。

なぜ人は指示なしに動けるのか - 『責任』とデザインの事例から (1) - Dossiri - Kamaeru

 

前章では、イニシアチブを主題にして、

・過去からの/特定個人に帰属する責任

・未来への/共同分有される責任

この二つを相互に往復しながら、個人のマインドフルネスから集団のマネジメントへと方法論を展開していきました。この時に鍵となるのは、AIRR frameworkでした。

後章では、まずはその包摂のプロセスをマルチエージェントから構成される組織間の総合的なプロセスとして理論的に分析していきます。これまでは、単一組織内のプロジェクトを前提として記事を進めてきました。しかし、デザインにおいてはパートナーシップや組織間の協働、それぞれの専門性において相互に監修し合うような意思決定場面、そういったものがしばしば発生します。

組織間のプロジェクトへと理論を拡張する際に、注意すべきことは何でしょうか?

私も勉強中の立場ですので、できるだけ難しい事柄に対しては皆さんと同じ立場として、この記事を書きながら「理解」を進めようとしています。まずは「責任の構造」を再度分析し、前章の暗黙的な前提となっていたものを炙り出します。2章では、そこから、組織間の話を進めていきたいと思います。

 

 

後章 組織をまたぐ

1節 責任の構造的設計

あるプロジェクトの話です。

外観デザインに関与するところから私はそのプロジェクトに入りました。この時点で、私と私の所属する部署はプロジェクトの「設計者」の立場ではありません。デザインアイデアと、コンセプトを出してほしい、という程度のものです。

その以前におこなった別プロジェクトにおいて、私が同様にデザインとコンセプトを考えるために途中関与したものについては、組織的な都合上主体的に関与することはできませんでした。設計者は組織の外部に存在し、契約関係上設計の基本的なデザインを私たちの部署は監修する立場となり、私は若手であってその監修以外の業務を任されました。「どのようにプロジェクトをすすめるか」については上席者の権限ですので、能力が不足している私自身の関与は限定的になりました。

今回のプロジェクトでも、私は関与の仕方が近しいものを感じました。ですので、「どう関わるか」、若手としてだけではなく、一歩進んでプロジェクトを能動的に推し進める能力を開発したい、という思いでこのプロジェクトに臨みました。

プロジェクト参入時点で、分かったのはマンパワーの問題を長期的に考えると、どこかのタイミングで設計の手綱が私たちのチームに渡される可能性が(そこそこ)あるということです。組織としてどのような体制とするのかは、自身にとっては不確実性の高い事柄です。最後まで責任がチーム外にある状態が続く場合もあります。一方で、今回の業務において私たちの立場は、珍しく企画段階において比較的時間の余裕があり、設計業務におけるフロントローディングを通して主体的な関与を行うことが期待できそうな状況でした。

この文脈においては、1章で述べたとおり、ジョブ・クラフティング的に考えること-業務を再解釈して再構成するのが可能である、とも言えました。

そのため、参入のレベルを一気に/不自然に深めるのではなく、むしろ人のつながりにおいて意識的に観察し、課題(未済な事柄等)を発見的に整理しチーム内で足並みを揃えながら業務を進めました。このときに行った業務は下記のとおりです。

1 明示的なプロセスでの情報確認: 必要情報の洗い出し。この資料はありますか?や見積メーカーの想定はありますか?といった状況把握的な確認を、「自分で考えて、責任をもってやる」ことを意識しました。この「動き出し」の「機会」として、企業体としてのISOプロセスへの準備という背景によってコミュニケーションがしやすくなりましたので、同時にISOの実効性を感じました。

2 基本設計の前倒し: 超概算前であるこの時期は、顧客と直接顔を合わせて要望を受ける機会が限定されており、むやみに連絡できない/私は直接は関与不可能/何を重視しているのかや、意図等を把握できない…という不確実性の高い状況下でした。個人的には、この時期こそ重要であるのでは…?という感覚でした。情報が足りないだけでなく、進め方が固まりきっていない状況において情報を集めるという主体的関与を行うことで、「予見」と「包摂」を実施できると考えました。

3 密なコミュニケーション: これもまた、「自分で考えて、責任をもってやる」ことの一つとして意識しました。具体的には、作業に集中する時間を取りすぎないこと。他社への確認のための作業を優先すること。特に構造・設備事項における不確実性が高いなかで行う「予見」的設計は、限界条件を把握し、その中で妥当な標準ルールを構成することから始まると思い、そこから着手しました。

あくまで重要なのは1人で突っ走らないことですので、ここは自身に求められた役割を素早く果たすことからになります。

 

この経験を書きながら思ったのですが、どうやらプロジェクト初期段階では管理者や責任者に対して、(より高度な/経験が要求される)組織をまたぐイニシアチブが成功の鍵となり、それが作業的に分解されて組織内での若手が主体的に関与できる局面へと移行していく、と言うふうに考えることができそうです。責任の構造的設計とは、そういうことなのだと思います。

 

ここからは理論の話です。以上のことを踏まえるとここでは3つ、責任の構造化の要点を挙げます。

第一に、これは包摂の具体化にもつながりますが、

「自分の判断がどこに跳ね返ってくるか」と

「誰からの判断がどこに跳ね返ってくるか」に注意を払い、全体構造を把握することが大切です。(これをしないと、組織の力学が見えず、適切に現場の違和感を上部階層に共有することができなくなります。仮に共有したとしても、それが有効性のあるフォーマットに乗っていなければ意味がありません。

第二に、調整コストが高く上位者の統合的判断を要するような(設計初期段階の)組織間の調整局面についても、上席者はその段階に応じ、若手の『正統的周辺参加』(Lave & Wenger)を誘導することは単なるコーチング以上の効果をもたらします。若手はいきなり中心的な意思決定者になるのではなく、実際のプロセスの「周辺」で参加し、ベテランの判断や非公式なやり取りを観察・模倣しながら暗黙のルールを内面化していきます。当たり前のことですが、では、どうやって業務として参加させるか、というところです。たとえば、若手は文書やフォーマットや図面の作成・更新・翻訳等を担うことで、実質的な調整プロセスに関与しつつ、最終判断の重みは負わない形で経験を積めます。(AI時代には、この作業が半自動化されることで身体化するのが難しくなるのが課題ですね)

第三に、若手は受動的に指示を待つのではなく、「なぜこの調整が必要か、誰が何を懸念しているか」を能動的に取りに行く姿勢が求められます。

 

これらの理論的背景は、Thompson の相互依存性理論になります。

 

◾️ 境界オブジェクトの有効性

組織内で見た時に、この若手などが文書やフォーマット、図面の作成を通して関与を深めることができるような諸々の媒体をStar & Griesemer(1989)は「境界オブジェクト」と呼びました。

"Boundary objects are objects which are both plastic enough to adapt to local needs and the constraints of the several parties employing them, yet robust enough to maintain a common identity across sites."

 'Translations' and Boundary Objects: Amateurs and Professionals in Berkeley's Museum of Vertebrate Zoology,  Susan Leigh Star and James R. Griesemer

抜粋すると、境界オブジェクトとは、それを用いる複数の当事者それぞれのローカルなニーズや制約に適応できるほど十分に可塑的でありながら、場所を越えて共通のアイデンティティを維持できるほど十分に頑健な対象ということになります。

設計図面を手に取ると分かりやすいかと思います。

・図面は、共通的な使用においては弱く構造化され、一方でそれぞれの個別の使用場所では強く構造化されています。

・図面は世界共通言語でありながら(翻訳の手段)となる、抽象性と具体性を併せ持ちます。図面の作製と管理は、交差する複数の社会的世界ーー若手設計者と熟練設計者、顧客と設計者、専門家と専門家ーーそれらの相互の関係においてプロジェクトの一貫性を発展させ、維持するための重要な媒体です。

設計者はみな、図面をはじめ、仕様書やドキュメント、システム図、概念図などを通して、組織内ひいては組織間の包摂プロセスを実現します。逆に言えば、境界オブジェクトなしでは、多様な集団が合意に至らないまま連続的に協働することは困難です。

「組織間」の包摂プロセスを設計する際は、「全員が同じ理解に達すること」を目標にすることはおそらくできないでしょう(つまり、前章で述べたセンスメイキングが方法としてあてにならないという意味です)。代わりに、各組織がそれぞれの文脈で異なる意味づけをしたまま協働できる境界オブジェクト(仕様書、プロトタイプ、共通のデザインシステムなど)を意図的に設計することが要点になります。これはこれまで前提にしていた「単一組織内での合意形成」とは異なる設計思想を要求します。

たとえば、エンジニア業界のドメイン駆動開発におけるユビキタス言語などが、境界オブジェクトと似た発想になります。明示的に共通の言語を作ることの重要性がここでも謳われていますね。

 

2節 バウンダリー・スパナー

より小さな組織においては、組織的なプロセスが整備されていないことがしばしばあります。

組織間の関係性が増えるというのは、それだけ設計の断絶的なフェイズとなるような、撤回の効かない意思決定が多く生まれるということです(契約的ガバナンスへの移行)。

つまり、以下いくつかの点においてジョブクラフティングは適用困難になります。

まず、デザイン統括という単一権威の不在により、プロジェクトの一貫性を保持することは厳密には特定個人の役割責任の範疇を超えていきます。それゆえに、また、組織を跨ぐことによって、代理的な統括責任者が全体を見通すことが困難になります(可視性の喪失)。そして、契約的ガバナンスに移行することによって、たとえ可逆性のある形式であったとしても、撤回(体制の巻き戻し)のリスクが大きくなります。

さらに言えば、撤回の動機となる問題は多くの場合、すでにとんでもない状況にまで進展してしまっていることが多いです。組織間の場合、単一組織内のような「反省性→応答性」の反復を行うことができず、いってみれば何を反省すればいいのか明らかでない、誰も悪くないし順調だが、そもそも重要な何かを取りこぼしている…といった状況に陥りやすいのです。

(ジョブクラフティングが前提としていたような)非公式な役割浸透は、口頭合意や慣行の変化で済みますが、一方で組織間の合意は多くの場合契約という法的拘束力を持つ形式に落とし込まれ、後からの修正コストが桁違いに高くなります。これはコリングリッジのジレンマ(技術的ロックイン)が、組織間文脈では契約的ロックインという形で再演されることを意味します。

ゆえに、単一組織内より早い段階での慎重な設計が要求されることになります。

 

◾️バウンダリースパナーに課せられる課題

社会ネットワーク理論は多くの場合、弱い紐帯や偶発的な結びつきといったプロジェクトのセットアップ時のメリットを多く挙げます。しかし、プロジェクトの継続性を考慮するならば、バウンダリースパナーは「立ち上げたらそこで終わり」という訳にはいきません。

バウンダリー・スパニング・ロールを担う個人は、いずれの組織の正式な権威構造にも完全には属さないという構造的な脆弱性を持ちます。単一組織内の担当デザイナーであれば「統括責任者からの追認」という明確な「権威の回収的着地点」がありましたが、組織間の境界スパナーは、追認を与えるべき単一の主体が存在しないため、その人の行為の帰属先(役割責任)が構造的に宙に浮きやすいという新たなリスクが生じます。

 

これについて理解を深めるため、バウンダリースパニングを、もう少し動的に説明してみましょう。

本来、Burtなどの初期の研究モデルではバウンダリースパニングは、ある社会ネットワークともう一つの社内ネットワークとのあいだにある構造的空隙を架橋することにありました。これはその後、架橋し、その役割を構造化し、誰もが利用できる繋がりへと移します。これを仮に「飽和のプロセス」と呼びましょう。バウンダリースパナーは、プロジェクトが軌道に乗るにつれて意図的に自らの介在を減らし、当事者同士の直接的な関係構築に委ねていくといったふうに、能動的に撤退していきます。しかし、それは撤退だけの一方向ではないことに注意を払うべきであるため、私は「飽和」という言葉を選びました。社会構造内の接続性を促し、同時に新たな接続を探索する。この一見対立する二つは、片方を行うことがもう片方の主体性の獲得に貢献する、という相互に支え合う往復運動です。この点について、Kauppilaらの研究(2023)では、ブローカー個人が組織内の社会的ネットワークにおけるつながりを増加させることによって、同時に、自らのネットワークの拡大を促進する「opening」の行動を活性化し、その結果として、自身が構造上有利なポジションを再び活性化できることを論じています。(Opening new brokerage opportunities while closing existing ones: The Tertius Iungens orientation as a source of network advantage)

さて、ジョブクラフティングの話に戻りましょう。「統括責任者からの追認」という明確な着地点がないなかで、如何にして創造的に再定義された仕事を追認するか。実はバウンダリースパナーにとっては、この社会ネットワークにおける構造的空隙の飽和プロセスこそが、彼らの再構築した組織体制に対する追認であるということになります。人間関係や協力関係といった非公式な浸透(接続の創出)が繰り返された後に正式な関係(契約の関係、パートナーシップ)として定着し、ブローカー自身の介在が不要になっていくプロセスそのものと、その各領域における往復運動こそが、組織間文脈における「浸透→追認→役割の縮小」=「ジョブクラフティング」であると再定義することができるでしょう。

 

バウンダリースパナーは、その存在が本質的に曖昧です。この主体は、相異なる二つの役割責任の(帰属の明快な)立場からのメッセージを多く引き受けることになり、自身の役割の葛藤や、その曖昧性を保留する粘り強い取り組みを乗り越えねばなりません。バウンダリースパナーの葛藤はそれだけではありません。この人は、飽和プロセスを自ら進行させるにつれて、自身の役割を自らの手でクロージングしていく感覚を覚えます。自らの職務を全うするほど、自らの功績を証明する手段を失っていく…彼らは、しばしば自身を「何でも屋」と言います。それは、自身のキャリアをそのように呼ぶことでしか説明できないためです。

最後に、これは私がコミュニティデザインといえば思い浮かべるあの人のことについてです。彼らの立場は、その媒介的な立場ゆえに、意図せずより強い側の組織のための正統化装置として機能させられるリスクを負います。彼らのような立場は、本来的に無償労働的に取り扱われやすく、ゆえに政治に回収されるリスクから自身を守らねばなりません。

 

◾️  協働に関する責任

以上に述べた通り、バウンダリースパナーのイニシアチブは追認プロセスで一旦の達成となります。バウンダリースパナーにとっては、協働関係を設計すること自体が責任ある行為であり、その点では責任は達成しているわけです。

冒頭のイニシアチブの話と原理的には変わりません。そこから先は、繋がった組織間での対話に基づく分有的な責任が発生します。それぞれの主体がプロジェクトを実施しながら「自分たちは今何をすべきか?」を問い、「自分には状況を認識し、何らかの対応を開始する能力・位置があったので動いた」ということが、組織間で発生すると言うだけの話なのですが、この「追認」は非常に細やかに、それこそ各打ち合わせごとにやらなければいけない事柄ということになります。その意味で、組織間の協働では非常にスピード感を実感しながら自ずから進行していかなければなりません。デザインにおいては、常に形成された境界オブジェクトが権威となり、次の状況を形成し続けます。

 

 

3節 契約的ガバナンスと関係的ガバナンス

ここでは、今までの話の要点を組み込む形で、マネジメントについて言及していきたいと思います。

組織内でのプロセスから組織間へのプロセスへ拡張された「責任あるマネジメント」を定義するならば、それは単なる越境能力ではなく、ケースバイケースで境界を再構成する調整を組織の能力として形成すると言うことを含意しなければなりません。それは、おそらく組織内の力学として従来の成果・役割分担・キーパーソン・未来を問い直すと言うことです。 組織間協働においてAIRR framework を適用した時にプロジェクト設計のプロセスはこれまでと比べてどのように変化するのでしょうか。

これについての理論的枠組みが、経営学のダイナミック・ケイパビリティ理論(Teece)となります。

Teece, Pisano, & Shuen(1997)はダイナミック・ケイパビリティを、「急速に変化する環境に対応するために内外の能力を統合・構築・再構成する企業の能力」と定義しました。これは通常のケイパビリティ(「物事を正しく行う」=既存の計画を効率的に実行する)とは異なり、戦略的刷新(「正しい物事を行う」)に焦点を当てるものです。

Teeceはこれをさらに、①機会・脅威を感知すること(センシング)、②機会を捉えるために資源を動員すること(シージング)、③競争環境の変化に応じて有形・無形資産を再構成する(トランスフォーミング/リコンフィギュアリング)という3つのクラスターに整理しました。

 

マネジメントとは往々にして、プロセスにおける本来初期に定められるべきものと、その結果後半に明らかになるものとを整理して、その順番を遡行して管理することが肝要です。ここでも、その考え方を使って理論を整理します。

{A:評価、B:KPI、C:リスク}

この三つは、プロジェクトの基となる制約(トップダウンの体制では上位におかれるもの)です。つづいて、
{D:権限、E:部門構造、F:予算、G:契約}

この四つは、プロジェクトの中期に明確化していくものです。そして、最後に明らかになるのが
{H:情報}

です。適切なプロジェクトマネジメントのために、この最後に発生するHから遡行して整理していきましょう。

 

◾️ Phase1 情報を認識できない状況

最初に起きるのは、「自分たちの仕事の外側で何が起きているのか分からない」という問題です。企画段階では、組織の中での進捗や工程は把握できても、他社(仮にB社とします)の工程が遅れていることや、どれだけ遅れているか、B社とそのパートナー(仮にC社)との間で何が起きているのか等は把握できません。イニシアチブ以前にセンシング能力が欠けているためです。Teeceのセンシングは、市場情報だけではなく、技術・顧客・競争環境等を探索し、機会や脅威を認識する能力です。

「未来を見通すために必要な情報は何か」と「その情報を得るためには誰と密につながればいいか」をプロジェクト統括者は自発的に問い直す必要があります。組織の境界に縛られた硬直性の高い体制においては、他者の状況を見る権限がないことが悪さをして、このセンシングの自発性が失われてしまいます。マネジメントにおいては、これを「諦める」のではなく、仕組みづくりとして、「協働する目的を達成するための情報にアクセスできるよう、組織横断の状況把握に必要な情報だけ共有することができるようにしませんか?」と提案し、合意形成を試みます。単に「情報を全部見せる」ではなく、意思決定に必要な範囲だけ開示できるようにするのがミソです。つまるところ、情報コストや機密性との兼ね合いですね。

 

◾️Phase2 問題は見えたが、動けない状況

次に起きるのは、権限の問題です。

情報が得られると、「これはB社との調整が必要だ」という問題が見えてきます。しかし組織間においては、担当者レベルではB社に要求する権限がないことが多いです。現場への感度を高く保つプロジェクト統括者は、この問題を素早く拾い上げる必要があります。Teeceのシージングとは、感知した機会に向けて資源・人材を再配分する投資行動になり、この中に権限の交渉も含まれます。具体的には、条件付きの権限移譲ーー機会損失を減らすためにあらかじめ責任上限、発生する金額の上限、発生する工数および納期の上限を設定した上で、こういうことをお願いすることを今後可能にしていいですか?を交渉することです。不可逆な契約・大きな金銭・法的責任を伴う判断は必ず上位承認とするとこを予め押さえた上で、現場で決定可能な相互協力の範囲を増やすということをマネジメントします。

 

※誰と動けばよいのか分からない問題

さて、Phase2といざ実行しようとしたときに、関連して発生する問題が相手企業の別部署や体制のパートナーの問題です。相手企業の総務なのか施設管理部門なのか、技術部門なのか、相手側のPMなのか、デザイン方針の担当部門か、それがプロジェクト固有のインテリアデザイン系なのかブランディング管理者なのか品質管理系なのか…といった不透明性があるときに発生する問題です。

目の前にいる相手と、他者内調整部署が別部署である可能性をまずは確認する必要があります。もしその場合、窓口(境界責任者/プロジェクト統合者)を置き、部署横断の一時的チームを組む必要があります。これは、物件・案件ごとにキーパーソンを明確化するということですね。

 

◾️Phase3 実際に動こうとすると契約が壁になる状況

体制づくりの時に勘違いしがちなのが、先方担当者の善意に訴えても意味がないということです。大前提としてヒト対ヒトとしての関係性は重要ですが、結局のところ担当者が追加業務をすると責任だけが増えてしまう、といった状況では相手も動けません。動こうとして初めて契約が障壁として見えてきます。

追加対応を暫定的に実施し、一定条件で費用・責任・範囲を再協議する内容を含んだ契約がここで必要になります。

この契約がうまくいくためには、相手企業に対して、追加活動が恒常化した時点で契約変更しないならば停止すること、無償対応の常態化を許さないことをこちらが理解している、と相手に伝わっていることが必要です。プロジェクトの合意済み範囲が正式な手続きなしに少しずつ膨らんでいかないよう釘を刺しながら、一方で初動対応を柔軟化すること。これがマネジメントの難しさでもあります。

契約は静的で不可逆なものだと一般的には理解されていますが、AIRRフレームワークにおける契約的ガバナンスでは、この契約の更新を選択肢として残しておくことが「応答性」につながります。AIに詳しく方法論的を説明してもらうと、これは「契約に組み込まれた再交渉権(ステージゲート、サンセット/再開条項、持ち回りの共同運営委員会)による、事前に合意された再構成のタイミング」を確保するということらしいです。このあたりは、もう少し今後勉強していきたいと考えています。

 

※予算について

契約と連動して予算の問題が発生します。これはそれぞれの組織が内部的に解決すべき問題ではあるのですが、追加活動で発生する費用を支払うことができる探索・境界越境予算を小額の共通枠として設定し、一定額までは担当者が即時使用できるようにしておくことです。この範囲は、各社常識的な範囲で確保はしているのですが、いつ・どこまでをきちんと明らかにしておくことは重要です。また、この予算から他の赤字補填に使われるようなことは絶対にあってはなりません。また、反省性として、その越境行動がきちんと案件成立や問題解決に繋がったかどうかで評価することも忘れてはなりません。

 

◾️Phase4 やった結果、何を成果とするのか分からなくなる状況

先の二つのフェイズがシージングであり、ここからはTeeceのトランスフォーミング/リコンフィギュアリングになります。まずはKPIの問題から。

請負については、Output+Outcomeの二段階KPI(納品達成を最低条件にし、その上に共同成果を置く2つの評価軸)を設定することで組織内でのKPIを健全化できます。インセンティブ付与ですね。勿論、測定不能で不明瞭なOutcomeは主要KPIにしてはいけません。

次に、評価の問題。契約範囲を超えた仕事が評価されないのならば、バウンダリースパニングは持続不能な、利益追求と相反する理念となってしまいます。これについては、『協働貢献評価』を設定すれば良いかと思います。契約範囲の内外の行為そのものではなく「利益・リスク低減・案件拡大に寄与した成果」を評価する評価軸です。無償奉仕ではなく、売上 、粗利、再契約、リスク回避などに接続することで、バウンダリースパニングを健全に評価に組み込みます。

 

◾️Phase5 誰も動かなかった/誰が動いた の責任が不明の状況

最後に、リスクの問題です。特に、勝手に動いて問題が起きた時の責任が不明、と言う状況を常態化させてはいけません。これはむしろ、プロジェクトを経験した後に発見されることがあります。

例えば「次回はもっと早く動こう」 となったところで、「でも、前回それをやったら誰が責任を取るの?」 という問題が出てきます。つまりこれは単なるリスク管理ではなく、組織がイニシアチブを発揮できなかった根本原因としてプロジェクトの最後に発見されることがあります。この問題を解決するためには、まず以下の原則を組織内で構築する必要があります。

Initiative Safe Harbor:事前に定めた範囲内の善意の先行行動は、結果が不首尾でも自動的に個人責任にしない原則

これによって組織内に、「動いた方が損」を防ぎ、初動を速める効果をもたらします。ただし故意・重大過失は除外されるべきであり、特に不可逆な過失、法令違反などはセーフハーバーの範囲の外に置かれるべきです。

 

◾️ 組織間協働のプロセスはこれまでと比べてどのように変化するのか

2章までは、個人としてのバウンダリースパニングの話を行いました。3章では組織自体が自身の役割の閉塞感を打破して、複数組織間でイニシアチブをとるためのマネジメントと、契約の仕方の工夫、営業戦略、プロジェクト推進者の調整方法について理解を深めました。

組織間では、厳密な意味でプロジェクトのコントロールはできません。責任者にできるのは、状況の構築だけです。このリーダーに求められる「責任あるプロジェクト推進」能力としては、自組織が設定した役割・問題設定・評価基準を、外部から得た情報によって必要に応じて組み替え、その変更を実際の行為へ接続する能力と、異なる組織の人間が、それぞれの組織的論理を維持したまま、一つの問題に対して共同で行為できる状態を作る能力であるといえます。「うちはここまで」の問題を乗り越え、組織的な権限・資源・戦略によってイニシアチブを発揮していくための一助になればと思います。そして、その摩擦を減らすために、共同で情報を統合していく境界オブジェクトの活用が有効な選択肢となってくるのではないかと思います。

関係的ガバナンスと契約的ガバナンスは、本来相互補完的なものです。「まず非公式な関係を築き、後で契約に落とし込む」のではなく、関係構築と契約設計を並行して進めていくことが必要です。この並行して進めるということを具体的にイメージするために、先程説明した契約の問い直しや体制の問い直しといったひとつひとつのマネジメントがあります。

 

最後に

 

二つの記事を通して、役割に対する閉塞感を打破するため、イニシアチブをどのように発揮していけばいいのか/発揮する組織を作ればいいのかを、より複合的に考えてきました。それらは、現状の違和感を無視しないこと、その違和感の正体を考える主体としてデザインプロセスに関わることが大切なのではないか…と考えています。ただ所定範囲のプロジェクトを計画するのでなく、プロジェクトを動かしていく、そのためには個人・チームとしての前提を問い直していくことと、その違和感に対しては進むべき方向を補正する実効性のある主体としてプロジェクトに関与すること…これが、『責任』とデザインという事例を通して私が感じたことであり、私や皆さんの今後の方針の一つになるのではないでしょうか。

なぜ人は指示なしに動けるのか - 『責任』とデザインの事例から (1)

 

【この記事の目的】

 

この記事の目的は、「役割の閉塞感」を個人として/組織として打破する再現性を探求することにあります。

私たちが無意識に行っている他者との協働について、「人に何を期待すればいいのか」「自身の行為の何を評価すればいいのか」「何をもって誠実さを定義するのか」ということを問い直します。とりわけ、プロジェクトにおけるイニシアチブのレベルを押し上げるためのロードマップ形成が本記事の目的です。

 

【この記事の構成】

前章 個人について

1 自律性と責任

ここでは、内省的なアプローチを整理し、セルフリーダーシップを理解することを目的とします。

2 ジョブ・クラフティングと責任

ここでは、認知的境界の変革に到達する前準備として、AIRRの各プロセスについて共に理解することを目的とします。

3 構造の責任ある変革

ここでは、構造の変革を破綻させないために個々人が満たすべき組織内での協働状態について、確認することを目的とします。

 

後章 組織をまたぐ

1 責任の構造的設計

ここではマネジメントの観点から責任を理解することを目的とします。

2 バウンダリー・スパナー

ここでは、社会ネットワーク理論を引用しつつ、より複雑な状況である組織間の協働について責任概念を適用することを目的とします。

3 契約的ガバナンスと関係的ガバナンス

ここでは組織間の協働状況を構造的に設計するにあたり、各組織が責任区分を通時的に変容させていく際のイニシアチブをどのように捉えればいいのか、責任概念の動的な性格を検討します。

 

 

■ はじめに

 

私たちは、仕事の節目節目で、組織で働くにあたり常に目の前にあらわれる「透明な壁」と向き合うことになります。しかし、何を自分から行っていけばいいのかを俯瞰的に見るのは難しく、この閉塞感を言語化することさえも困難です。

例えば、目の前の仕事同士の関連性、人間関係における情報の絡みつきをうまく言語化して、紐解く行動がデザインする人間には求められます。しかしそれについてはその結果うまく行ってるのかどうかを「やる前には分からない」上に、それをどう振り返ればいいかも分からない、といった状況があります。

 

自律性とは「求められている役割を把握する」ところから始まります。自身の役割がわかっていないと、「これをやるべきだ」と思う行動と、実際に「これを実行する」こととの間に権威(上席者など)の事前確認が発生します。それ自体は悪いことではないのですが、これを続けていると、間違ったことをやることが恐ろしく、すべてに確認をとってしまうことになります。「どのような形でとりまとめ、どのように確認するのか」は重要です。

役割を把握するということは、移譲されている権限を把握するということを含みます。この権限の把握は大切であり、同時にそれが成長の出発点になります。

さらに言えば、設計の責任者となる場合、ある行動がプロジェクトの円滑な進行や誠実な設計行為にどのように働くのかを把握しておかないといけません。いわばマネジメントの視点から見た設計者の能力開発がここからスタートします。

 

前章 個人について

1節 自律性と責任

役割の閉塞感、これは責任という概念を整理することで基本的な対策がとれてきます。まずその前に押さえておきたいのは、私達が変えることができるフィールドは2×2=4象限、すなわち4つのフィールドがあるということです。個人にとっての-組織内のフィールド。構造的な-組織内のフィールド。個人にとっての-組織間のフィールド。構造的な-組織間のフィールド。この4つのうち、ここでは個人にとっての-組織内のフィールドから出発したいと考えています。

 

なぜ、このような枠組みとしたのか?

それは、現代の責任概念の多義性をカバーするためにある程度の状況ごとの解説が必要なためです。

「責任」は多義語です。たとえばデザイン学では学部3年〜修士1年くらいの時期に、「責任あるデザイン」という言葉を学びます。ここで私達の責任概念は、クライアントへの責任から社会への責任、自然や資源および未来への責任へと対象を拡張し、一方でプロセスとしての責任(説明責任や外部性を可視化する責任)にも拡張されることを学びます。簡単に言えば、私たちは私たちの行動を倫理的に見る、ということです。

しかしその議論を見れば分かるとおり、デザイン理論における責任概念は、(少なくとも21世紀初頭までは)個人における倫理的態度としての責任の話に終始しています。それは、古典的な、範囲を限定した適用に過ぎません。本来、視野をより広げて俯瞰すれば、責任の定義は、遡及的・個人特定的なもの(法学の原型モデル。制裁を誰に与え、誰が免責されるのかを特定させることが前提となっている責任概念)から、将来志向的・集合分有的なもの(複雑化する政治責任やサーキュラー・エコノミーのEPRといったような、「すべての人に責任を分有する」という概念に基づく責任概念)までの大きな幅を有しています。その2極は緊張関係にあり、この軸の広がりこそが私たちが責任概念の理解することを困難にしていますが、この対立軸を踏まえて私たちは議論しなければなりません。そしてこれは、単純に後者が支持されるべき、ということを示しているわけではありません。Iris Marion Youngの著書とその批評にあるように、分有は極めて危うい、開発中の概念です。例えば、「責任あるAI」の領域において、責任を誰がどう引き受けるかを解決することが焦点化している一方で、それを単なる技術的な問題として解決することは容易ではありません。これもまた、もはや責任は特定主体に帰属させることが難しく、責任を分有する社会的連関を構造化することが必要課題となってしまっている一例と言えるのではないか、と考えています。

 

ですので、まず私は、この振れ幅を理解した上で、自律性と責任というテーマを選びました。素朴で基本的な「責任」のモデルです。

冒頭で私は、自律性とは「求められている役割を把握する」ところから始まる、と言いました。これは私の経験的な直感ですが、行動判断において「これは私に求められている役割か?」というのは強力な判断基準です。自身の役割をどう解釈しているかによって、行動は変わります(同時にこれは、コーチングにも適用されます)。

役割を理解する、ということはどういうことか?少し、分解してみます。

プロセスは以下の10段階です。

1 俯瞰する(オペレーションリソースを状況の観察に割く)

2 目の前の状況を認識する

3 「自分はこの状況について、何を担う立場なのか?」を判断する

4 「自分は実際に何を決めることができるのか? 」を判断する(自律性の確認)

5 能力および権限を確認する

6 影響の確認と検討、および予見を実施する

7 「なぜ私はこの選択をしたのか、後から説明できるか?」を確認する(説明責任の確認)

8 結果が予想と異なるときの措置を考えておく

9 「この問題を個人の責任として処理してよいのか。それとも組織の構造そのものを変更すべきなのか?」を問う

10 実行する

 

役割を把握する、というのは1〜5のプロセスです。

6〜8は、実行を仮定した時の「想定」のプロセスです。

特に9番は、組織の中に立つ人間としてある程度の経験を重ねて見えてくるものですが、これもまたメタ的に自身の役割把握として認識する必要があります。

特に4と5について、「このカテゴリの判断は自分に権限がある」という役割責任(role-responsibility)をより上位の責任者から明示的に付与してもらう前手順を自ずから要求することが、セルフリーダーシップに該当します。曖昧なまま動くと結局すべてが上席の判断待ちになるため、権限の境界線を事前に合意しておくことが重要です。

ここで、役割責任という言葉が出てきました。H.L.A. Hartは「責任(responsible)」という語を、役割責任(role-responsibility)、因果責任(causal responsibility)、負担責任(liability-responsibility)、能力責任(capacity-responsibility)の4つの意味に分節化しました。これについては、2節(ジョブ・クラフティングと責任)でもう少しだけ出てきます。

以上のセルフリーダーシップにおいては、まず自分の行動を自分で観察・設定・評価するという自己報酬型のループを回せることが、自律性の回復/強化(ひいては自己効力感の強化)の第一歩になってきます。

 

■ セルフリーダーシップの「思考の武器」1

今回の記事の核心の一つでもあるのですが、

私は、Responsible Research and Innovation(RRI:責任ある研究・イノベーション)の AIRR framework を、個人のセルフリーダーシップにおける「思考の武器」としても解釈できると考えています。なぜならば、設計者というのは本来、プロジェクトのマネジメントを行うことが自律的に要求されている立場であるためです。

AIRRには、4つのプロセス次元が提示されており、以下、順に説明するとともに、業務上の機会として解釈していきます。

①『予見』: 「もし〜だったら?」という問いを立て、起こりうるリスクと不確実性を想像するよう行為者に促す。➝これは設計プロジェクトにおいては、コスト対応、協議対応等、様々な計画の変更を想定し、設計初期段階や不確定情報下で行う設計行為が代表に挙げられます。厳密にいえばそれは予測(prediction)ではなく、起こりうる複数の未来を構造的に探索することになります。

②『包摂』: 多様な洞察を得るために、ステークホルダーとの広く早期からの関与を求める。➝これは設計プロジェクトにおいて、設計協力への働きかけ、デザイン協働などの業務に該当します。事業主サイドの担当者の巻き込み、重要な都市計画設定などでの担当者との協力関係の構築など、一連のプロジェクトを円滑にすすめるための手続き的手法になります。

③『反省性』: 行為者自身の動機を問い直し、自らの活動を道徳的責任と整合させることを求める。自分たちの前提・価値観・知識の限界を自覚する「鏡を自分に向ける」行為。➝これは、設計目標の「検証」と、設計目標の「妥当性確認」、そして一連のフォローアップ(進展確認)という設計行為が該当します。

④『応答性』: 予見・包摂・反省から得られた洞察に照らして、イノベーションの形や方向を変える能力を要求する。➝①〜③で指摘された問題点をそのままに終わらせず、実際にガバナンスや設計に反映させる適応能力を示します。これは設計者の、「責任ある」問題解決の能力です。

以上の4つの思考法を設計期間中常に問い直すことで、「プロセスにおける設計の継承と一貫性」という強力な原則に流されがちな長期プロセスのなかで重要な変革機会を逸することなく、むしろ組織の力学に基づいて問題点を正しい方向に修正するように、意思決定プロセスを誘導することが可能になります。これによって本来自分ひとりで変更することが困難である場合にも、勝手に変更することなく、合意の基盤を整えることができます。

 

■セルフリーダーシップの「思考の武器」2

前述したものは、既に言った通りAIRRの輸入概念になります。次に、セルフリーダーシップ理論本体から、前者を補完する重要な思考方法を3つ挙げます。

『自己目標設定』: いちばん重要なことではありますが、「私は何を目標として行為するのか?」が先立ち、その他の業務の指針となります。目標設定は、業務としても、設計としても、必要不可欠です。そして組織としては、この目標設定を立てられる設計者を育てることが重要となります。

『セルフモニタリング』: 先程の『反省性』よりも低次の概念として、単に「私は今何をしているか」を問い直すことは、設計の基本となります。自分の実際の行動が、何を取捨選択したのかを自覚することにつながります。

『認知的再構成』: これは、設計を「自身の設計」として問い直すためのプロセスになります。「上司がそう言ったから仕方ない」という判断が設計上あったとして、もしこの判断について認知的再構成を実行しなければ、顧客や他者からの質問に自分ごととして流暢に答えることができなくなります。設計の責任者である以上、「本当に『仕方ない』のか?」「私は何を恐れているからそう考えている?」「別の方法はないか?」を問い直し、誰かの「指摘」を自身の設計判断へと再構成しなければなりません。

 

2節 ジョブ・クラフティングと責任

さて、ここまでAIRRという強力なフレームワークがどういった背景の概念なのか、というところを飛ばして説明してきました。改めて、概念の整理を行いたいと思います。

そもそも、RRIとはイノベーションを取り扱う研究領域ですが、その背景には2つの事柄があります。

 

(a) コリングリッジのジレンマ(Collingridge dilemma)

イノベーション初期は方向修正が容易だが影響がまだ分からず、影響が明らかになった頃には経路依存性(パスデペンデンシー)やロックインが生じてもはや修正が困難という構造的矛盾です。AIRRという4つのプロセスからなるフレームワークは、技術の経路依存性や技術的ロックインが生じる前に、いかにイノベーションの方向づけに関する知識が不足しているかというコリングリッジのジレンマに対処する助けとなります。

(b) 科学・技術ガバナンスへの信頼低下

RRIは複数の大きな社会的課題と、政府・企業・科学技術に対する公共の信頼低下を背景に登場し、その目的は科学とイノベーションへの公共の信頼を回復することにあります。この枠組みは、現代民主主義にとって新興科学・イノベーションのガバナンスが大きな課題であるという問題意識のもとで開発されました。

 

以上2つ、AIにまとめさせて整理したものになります。つまり語弊を恐れずに言うなら、この2つの背景において、イノベーションと設計行為は同型の問題空間を有しています。設計においても、初期の設計上の設定がロックイン効果をもたらし、その影響が把握されるのは設計の後期工程になります。また、「設計者への信頼の回復」という点では、近年の建築家に関する騒動を挙げればきりがないかと思われます。「組織として設計する」時代に移行する時代にあり、設計対象もまた、現在ではなく未来への責任を問われる時代に移行しています。

責任あるイノベーションの定義が、'care for the future through collective stewardship of science and innovation in the present'「現在における科学とイノベーションの集団的な管理を通じて未来を大切にすること」(Owen et al, 2013)であることをここで引用させてもらいます。(https://discovery.ucl.ac.uk/id/eprint/10052401/1/Stilgoe_Guston_responsible_innovation_2017.pdf)

この集合的スチュワードシップは、1節で述べたようにですが、責任とはもはや遡及的・個人特定的ではなく、集団で分有するものであるという立場に立脚した定義になっていますね。

もしも責任の対象が過去ではなく未来になったとき、その責任の定義はどうしても個人の責任という古来の定義とは親和しない。むしろ集団の責任として定義しなくては機能してくれない。そういった背景を感じ取ることができます。(ここでいう責任は、Hartの負担責任(liability-responsibility)に該当するものになります。)

 

以上の点を踏まえ、AIRRの機能的側面を再整理しましょう。

・予見 → 時間的不確実性(コリングリッジのジレンマの「早期に知識がない」側)への対応

・反省性 → イノベーター自身の認識論的謙虚さの確保

・包摂 → 正統性・信頼低下問題への対応

・応答性 → 上記3つで得た知見をガバナンスに実際に「閉じたループ」として反映させる仕組み(コリングリッジのジレンマの「後から変えられない」側への対応)

つまり、この4つは明らかに、設計者が設計の後半プロセスで直面する複雑性の高い問題に対する経験的・実践的な対応策としても成立しています。

 

■ ジョブ・クラフティング理論とAIRR

先に説明したとおり、AIRRはそもそもイノベーションに到達するために、業務領域上「誰においての手柄・落ち度か」を問う理論ではなく「誰の手柄・落ち度かを問うこと自体を控える理論」となっています。実は、第一節ではその点において、AIRRの本質的な問題意識とはかけ離れ、予見力/反省力/包摂力/応答能力といったふうに「個人が持つべきスキル・美徳のチェックリスト」として矮小化した話をしてしまっているのですが、これは一節では「個人ができること」をまず説明したかったためになります。

今から説明する、ジョブ・クラフティング理論は責任の帰属可能性を前提とした理論であり、軸でいうと責任特定的な側に位置します。もちろんそのほうが組織マネジメント理論とは親和性が高いので、この理論はビジネスの領域で高い評価を受けています。

2節では逆に、少し軸でいうと責任分有という現代の組織システムに近い形での議論を行って、相対する両者の接合を図ることによって、「組織内の-個人的な」責任と、「組織内の-構造的な」責任との橋渡しをしていきたいと考えています。

 

まず、組織における構造的な責任区分というのは、権威によって区分される枠組みです。組織の中には、多様なエージェントがいるプロジェクト状況においては、個々の構造的役割(例えばチーフと各設計責任者といった責任区分)がある一方で、個々人が実態として行う(あるいは担う)役割があります。「その人に責任を帰属させることが可能・適切である」という責任主体としての判断能力、成熟性、意図・故意などを有する場合、自身の構造的な役割を超えて他者の仕事がこちら側に越境してくる、という状況が発生することがあります。これが無秩序に行われてしまうと組織は崩壊するのですが、実際の人材育成においてはこの越境を喚起させるという枠組があり、プロジェクトチームの責任を「静的・固定的」なものから「動的・有機的」なものへと捉え直したマネジメントが行われています。この現象における統制の条件を整理したのが、ジョブクラフティング理論になるわけです。

ジョブクラフティングは、仕事の課題・関係・仕事の捉え方を自発的に変更して、自分の仕事を再設計する行動です。つまり「責任を負わせてよいか」ではなく、「与えられた仕事を、自分はどこまで自律的に再定義できるか」という風に考えます。もしこれが組織的に行われたとき、エージェントのイニシアチブは相互に浸透していきます。

この、有機的な役割拡張 というのは、個人のイニシアチブの結果として、以上に述べたような能力責任が形式上の役割責任を超えて先取りする現象となります。これは、自身の役割の再定義(認識の変更)➝人間関係の再定義(誰と関わるか、誰と相談するかを変更)➝タスクの再定義(実際にやる作業内容を変更)という風に内省的なものから顕在化された状況へと進展していきます。いわば、実際の権限移動より先に「空気として」浸透が進むわけです。そして、最後にその役割が追認されます。

 

デザインの業務においては、トップの責任者にはプロジェクトの「一貫性」という強力な慣性が働きます。これは、特に大きなプロジェクトにおいて責任者としての最も重要なマネジメントの一つです。理由なき限り、当初に言っていたことは継承します(経緯のダイナミクスがあまりに巨大で複雑であるために、それを変更するリスクが不透明であるために一貫性を原則化します)。このようにプロジェクトには、それが無秩序化しないようにするために制御可能にするためのルールがいくつかあります。

組織の役割構造の変化に関しても同様であり、ジョブクラフティングを行う際にはいくつか破綻しないための制約を考えなければいけないでしょう。

わたしはこれを、「可視性・可逆性・追認ループ」としてひとまずルール化しておけばいいのではないかと思います。一般的な仕事の仕方として、「誰もがわかる形で残す」ということ、属人化を回避することによってある程度うまく行かなかったときのケアができます。可視化と、可逆性の担保はそのために当然必要です。追認ループというのは、追認によるフィードバックループのことであり、定期的に役割責任を実態に適合させていくというプロセスのことです。もし業務の浸透が統括責任者によって正式な役割責任として追認・formalizeされないと、能力責任と役割責任の乖離が慢性化し、責任の所在が曖昧なまま蓄積してしまいます。

加えて、組織的に見たときに業務の相互浸透が同時多発しすぎると、誰の役割責任か分からなくなり、統括責任者のプロジェクトを一貫性をもってコントロールするという本来機能そのものが不可能になってしまいます。役割責任をシステム的に作ることで生まれる情報優位が減衰してしまい、「企業体としての」プロセスの管理性が失われてしまいます。

 

以上のように、AIRRの組織体の中でジョブクラフティングが発生する場合の適切な評価システムを用意しなければなりません。言い換えれば、「誰の手柄か」を問う個人評価と、「構造全体が未来に対して応答的であるか」を問う集合評価とは分けて考えなければいけないということです。

ジョブクラフティング行為を誰が・いつ・どの境界を変えたかとして記録し(可視性)、個々の行為の集積が、集合体として不確実性に対して十分に予見的・反省的・包摂的であったかを評価(応答性の検証)、そしてその評価結果を、個人の役割定義へフィードバックし、繰り返し有効だったクラフティングを正式な役割責任として追認する(追認によるフィードバックループ)。逆に個人の逸脱が集合的な機能不全につながっている場合は、その応答として役割への修正を行う(可逆性)。このような一連の統制のもとで、個人というレイヤーだけでなく、組織というレイヤーにおいても、複層的に「責任あるプロセス」を実行することができます。

 

3節 構造の責任ある変革

1節、2節で述べたような個人姿勢としての範囲を超え、組織体としての「責任ある」設計プロセスについて検討していきます。1節で整理した4象限でいうと、今からの内容は「構造的な-組織内のフィールド」の話です。ただし、問題意識としては、これまでと変わりません。

個人ではなく組織でなければ立ち向かうことのできない複雑な問題に関して、これまでと同様に、AIRRの「予見」や「包摂」といったプロセスを実行する方法について検証していきます。

まず、不確実性とは何でしょうか?

状況の不確実性について、私は「いくつかの確率の低い状況が多数想定され、それらによって構成されることによる不確実性」と、「シナリオが全く想定できない不確実性」とを分けて考えています。前者においては、必要な情報量が多い状況として定義され、個人ではなく組織として情報を処理しなければならない状況のことです。これについては、Mintzbergの組織構造論などの知見があり、タスクフォースや横断型チームといった情報を吸い上げて統合するための機構を構築するといったアイデアがあります。しかし後者については、全く手立てがありません。

組織ですので、確率的な問題は数値化して意思決定すればよいですし、確率測定不可能という不確実性や曖昧性が残る場合は概念化の適切な手法を経て、数値を比較することで検証できます。あるいは効用判断の問題になります。効用や測度については、調べればいくつかは出てきます(実適用するにはもう1段階学習のハードルが必要そうですが)。

さて、後者、状態空間そのものが未知な状況、ゆえにシナリオ自体を立てることができない状況についてもう少し手立てを増やしていきたいわけです。これが、「予見」と問題意識が直結する事柄であり、この問題空間は言ってしまえば「unawareness」についてです。

2つの武器があります。

 

■ Weickのセンスメイキング/イナクトメント理論 

設計においては、特にプロジェクトの固有性に基づく問題を取り扱うとき、「不確実性をどのタイミングでどう処理すればいいか」といった問題が頻出します。

例えば不確実性の意思決定の第一歩となるCynefinアプローチによって問題を分析したところで、「カオス」領域の「行動→感知→対応(act-sense-respond)」という処方箋的な型で対処することしかできません。もう少し深い考え方が必要です。

Weickの理論におけるこの不確実性への対処法は、行動として実行されるdecision makingに対して、その意味を事後的に意味づけ、「何が起きたか」を定義するというものになります。シナリオが存在しないので、その分一回の行動を小規模化し、結果を観察し、そこから遡及的に意味を構築するしかない、という姿勢です。これを、'enactment'と呼びます。行動の前に外部の環境を観察・予測するわけではないので、一見これは予見しているとは言えない、と考える人もいるかもしれません。ですが、一回の行動の幅を制限し、状況を意味づけ、これらによって一連のシナリオを創り出すプロセスは、将来への予見を目的としたプロセスです。

このイナクトメントはセンスメイキングという一連のサイクルの一つとして位置づけられます。このサイクルを回すことによって、遡及的で説得力のあるイメージを継続的に構築していきます。一連のサイクルは、イナクトメント・選択(セレクション)・保持(リテンション)から成立します。これは私が2018年頃の日記に書いた際に関心を持っていたU理論のセンスメイキングと近しいのですが、一般的には「言う」「見る」「考える」のループとして考える、ということのようです。

この理論は、参加者の納得感を高めるものなのではないかと考えています。プロジェクト主体としての我々のアイデンティティの感覚を重視し、より多くの観測データを取り込み、ストーリーテリングの軸となる物語を継続的に書き直すことで、この記事冒頭の問題提起にあるイニシアチブに関して、「最後まで当事者であり続ける」ことを追求することができる理論になります。

一方で、この自身が描いたもっともらしい解釈は、けして正確性を保証するわけではないことに注意が必要です。確証バイアスや解釈のロックイン効果を認め、適切に複数の視点の包摂を行って行かなければ、プロジェクトの問題発生時にも閉塞的な状況から抜け出せない解釈主体を形成することになってしまいます。もっともらしい物語に安住せず、積極的に反証・異常の兆候を探し続ける姿勢ーーこれについては、次に挙げるHROのマインドフル原則で説明します。

 

■HROのマインドフル・オーガナイジング原則

もう一つ、高信頼性組織(原子力発電所、消防、救急医療など)の研究から導かれた「マインドフル・オーガナイジング」があります。これらの組織は失敗に強くこだわり、単純化を拒み、計画や設計図に頼らず、むしろ見落とされている細部を探すという特徴を持ちます。定型化すると以下の5原則です。

1. 失敗への執着(小さな異常を見逃さない)

2. 単純化への抵抗(「わかったつもり」を作らない)

3. オペレーションへの感度(現場の弱いシグナルへの注意)

4. レジリエンスへのコミットメント(壊れた後の回復力を設計する)

5. 専門性への権威委譲(階層でなく専門知識に応じて意思決定権を渡す)

これは、シナリオを予測すること自体を放棄した上で、異常の兆候に対する感度を組織全体で高く保つという、これまでとは質的に異なるマネジメント原理です。

注意点として、既知の知識というのは「予測」される事柄であり、一方で未知の知識というのは「想像」される事柄である、といったふうに分けて考える必要があります。予測不可能ながらも「起こり得る、可能性はある」事柄として想像される事柄を探索することは、「予見」に含まれています。

専門性への権限移譲や現場への感度は、プロジェクトが「もっともらしく」進み続けることで正確な現状認識ができなくなることを継続的に補正します。未来に応答する行動責任と、過去に帰属する正確な説明責任はともに理論的には緊張関係にありますが、本来は両立しなければならないものであり、その点では私たちは特定の単一理論ではなく複数の理論を組み合わせなければならないのではないでしょうか。

 

■ 構造の変革

構造の変革については、2節にあるジョブクラフティングの動的な組織構成を統制するための「可視性、可逆性、追認ループ」の時に軽く触れました。

さらに、組織が直面する不確実性に対処するため、AIRRの「包摂」が果たす役割をもう一度明確化していきます。

包摂は単なる正統性確保(前回までの政治責任論的な意味)だけでなく、センスメイキングのセレクション局面における解釈の多様性を担保する認識論的機能を持ちます。言い換えれば、「それをみるための多様な眼を確保する」ということです。

デザインの文脈で言うならば多様な意見者(統括責任者・レビュアー・バックサポート、パートナーシップ)はプロセスの中で参画しますが、それらのタイミングを前倒し/制御することについては担当者のイニシアチブに属します。多様な意見者を包摂することは、単一のアイデンティティに基づくイナクトメントの偏りを、複数の解釈の突き合わせによって補正する仕組みとして機能するため、個人にとっても非常に有用です。また、組織体にとっても、責任あるプロセスへ寄与します。これが、設計の不確実性に対して初期段階から対処することになります。不確実であるからこそ、まずは「少し動いてみる」ことが有効です。

まとめますと、構造の変革にあたっては、この「少し動く」ということによって次の行動の予見を行うための資源を獲得する、というプロセスを設定する変革であることが重要です。これは、プロジェクトの進行にあたっては、(AIRRベースドな)ジョブクラフティングの追認ループと同期します。さらに不確実で急速な変化を必要とするプロジェクト局面において、その破綻を素早く察知し補正するためには、その中に属する個々人のマインドフルネスとしてHROの責任ある姿勢に学ぶところが大きいのではないでしょうか。

 

前章おわりに

ここまで、個人から組織体へ、「責任ある」組織開発の問題意識で議論してきました。誠実に仕事しても回避が難しいある種のジレンマと、それに対処するためのAIRRアプローチを引用しながら、遡及的責任-将来思考的責任の交互の概念が両立する責任プロセスのあり方について整理してきました。引用した理論に基づけば、実際にはこれはプロジェクトの中で明示的に可能であると私は考えています。最後の節では、そのマネジメントという視点でより抽象的な組織論的概念のなかから、有効な思考の道具をピックアップしていったつもりです。

最後に、3節では包摂の中で「パートナーシップ」という言葉を少しだけ混ぜました。これは、後章の「組織間」のプロセスへと接続するために敢えてそうしています。次の章では、問題はガバナンスへと移行します。しかし、AIRRはその出自からして明らかなように、多様なステークホルダーが関わるガバナンスの局面で有効な議論を行うために開発されたフレームワークです。これについて、次記事では説明できればと考えています。

 

(2)に続く

なぜ人は指示なしに動けるのか - 『責任』とデザインの事例から (2) - Dossiri - Kamaeru

 

請負としてのデザイン / デザイン空間の次元

休日に、3blue1brounの正則力学の動画を見ていて、非常に面白くインスピレーションを受けたので、少し話をしたくなりました。

 

特に、ニュートンフラクタル(やFatou集合)のトピックについて私が思ったのは、有限回数の「操作」は、ある種の解(あるいはサイクル)への収束を伴う場合の「属するいずれか」があるというごく当たり前の事実は、実はもっと奥のある興味深い事柄なのでは?ということです。

つまり、ここで重要なのは、ただ、ある初期条件のセットが単体の空間のいずれかに属するというだけでありません。

「そのいずれかに属するという境界において直感的にはたかだか2個の解へしか収束しないと考えられていたが、実際には「どうとでもなる」カオスな境界が発生することがある」ということに着目します。

すると、私たちの関心はある変換行為の「結果が何であるか」ではなくその特徴的な状況が発生する場所を探求するというプロセスへと移行します。

この論理に基づく次元の変更手続きには、再現性がありそうです。私たちの思考を解放してくれます。

 

つまりこれは、何らかの奴隷であった私たちの関心が、別の次元(たとえば、操作される空間から、パラメーター空間)への移行を通して解放され、それが技術として意図的に行うことができるということを示しています。

 

少し、自分の取り扱っている問題領域にこのインスピレーションを輸入してみましょう。私が扱っているのは、社会におけるデザインという「解を取り扱う行為」です。

デザインとは有限回数の変換操作であり、それが洗練されたとき、(論理的な飽和に達したときに)そこを停止点とする「行為」であると私は考えます。

そしてそれによると、私たちの理性に基づくデザインが初期条件によってほぼ同じ答えへと収束することはごく自然なことであるということです。

一方で、デザイン行為者が潜在的に欲求する「奇抜な」「唯一無二の」「妙な」デザイン結果はあくまで感性に基づく意図的な誤りであることが多いと考えられます。なぜなら、そのようなことが初期条件から「必然的に」導かれるような条件セットの組み合わせはそもそも全体の中で多くないのですよね。

 

この限りにおいて、「そのような条件の生まれる場」を考えることは、もはや請負としてのデザインを超えて、より学術的な・あるいは控えめに言っても今までよりも抽象的な検討になるということです。

 

参考:

https://m.youtube.com/watch?v=QCR1gnub__E

 

ちょうど私が高校のころに好きだった、循環的な振る舞いを有する数列のことも思い出しました。学問は一生であり、そして何を仕事にしていようが、私が何を学ぶのかは自由であるということを感じられる休日でした。

 

2026/8/20

 

瓦礫に関する日記

 

好きな文を、ここに残しておきます。

*

場所を超えて砂は稲佐の大地を記憶しているだろうか。
砂は家の庭で薄められて、拡散して、撒いた母の記憶の中にその意味だけを遺す。
この庭が、遠くの砂丘と連続するという意味が庭の記憶に重なり、砂の物質的所在はいつか忘れられて、庭の重さの中に混ざっていく。

 

墜落した宇宙船は、まだ死について未知のままでいる私にとっての死であった。それは、絶対の沈黙によって、世界の客観性を証している。

人類がなにものからか解き放たれんとして空に向かって放出されたその鉄は、真空空間の被制約性によって破綻し、そして大地の被制約性に還っていくことになった……が、そして、それらは人間を乗せていた。人間の肉体と、なにか人間という不可説の正体とを乗せていたような気がするのだ。

 

*

2026/7/20

 

 

 

「表現の自由」と国家

少し、昔の思考と今の思考との答え合わせをするために、この文を書いている。

 

思えば、2019年の「表現の不自由展」が脅迫によって中止となったときに、わたしは弾圧という言葉の意味をよくわかっていなかった。弾圧とは何も武力に基づくものであり、香港のような海の向こうの話であると思っていた。

2026年のまさに今話題となっているのは、国旗に自身のメッセージを表現する、そのような素朴な・原始的な、体制への抵抗の表現についてである。別に褒められた表現ではない。

 

わたし達の多くは、これを刑罰化する国に対して、自己責任論の名のもとで静観を決め込むだろう。さて、なぜ静観を決め込むのか。

 

現代日本社会における『自由』の語用論(pragmatics)

 

①表現は自由である。

②表現は公衆の目にさらされる。

③公衆の目にさらされる表現は自由である。

この3つの文のうち、3つ目だけに違和感や反感を覚える人は多いだろう。それが、私はこの静観に関係していると思われる。なぜ違和感や反感を覚えるのか。その理由の一つは、自由という言葉が曖昧語であることにあると思われる。

まず論理的誤謬の有無について確認しよう。単に演繹的に言えば、表現は公衆の目にさらされる集合内にあるため、公衆の目にさらされる表現というのはすなわち表現の一特性を強調しているだけになる。したがって、3つ目の文は1つ目の文を反復しただけにすぎない。

より詳しくいえば、1文目を、[∀x(表現(x)→自由(x))]という命題とし、2文目を、[∀x(表現(x) → 公衆に晒される(x))]という命題と考えるならば、3文目は1文目と同じ意味の自由において真なのだ[∀x(表現(x)∧公開(x)→自由(x)]。大日本帝国憲法では、そもそも1文目が成立していなかった。日本国憲法では1文目が謳われている。

にもかかわらず、人々は「公衆に晒されたものが自由であっていいはずがない」と考え、3文目に違和感を覚える。これは、含意のトリックだ。

 

自由とは一般的に、「内容において不当に・あるいは手段において不当に、それを制限させてはならない、ということが司法上保証されているということ」である。

自由という概念は、何から自由かが曖昧であり、

・国家の規制から自由か

・他者からの評価から自由か

・結果責任から自由か

このような複数の用法が考えられる(曖昧性)。そして、1文目においては、国家(公権力)の規制から自由であるという意味である。

したがって、3文目は国家(公権力)からの規制という点においての自由は真ということになる。

 

では最後に、自由の範囲とはなにか。

例えば脅迫。脅迫は刑事罰の対象となっている。公共の福祉を害し、憲法の保障する言論、表現の自由の限界を逸脱する行為に関しては、その表現を処罰するということである。

この例をとっても、1文目の命題「表現は自由である」は、「憲法が保証する範囲内において」の真ということは明らかだ。

 

以上のことを踏まえると、私達の3文目への違和感・反感は、このように考えられるのではないか。

 

・そもそも市民団体を名乗る人たちからのクレームの範囲においては、公権力からの規制ではないため問題ないのではないか。(工作行動の立証ができないため)

・爆破予告や脅迫は、その手段において不当であるため、公権力であるかどうかに関わらず問題になる

・3文目とは、自由の言葉の曖昧性によって、「公開した以上、他人も自由に攻撃できる」という風に捉えられてしまう(敢えて付けられた「公開された」に対する含意)

・価値判断や感情論として、「表現を公開した人には保護は不要だ」という責任論が現代に浸透しているため、違和感を覚える

 

私はまさに、この各者の読み方の相違によって、表現の自由を保証する活動が阻害され・混迷化していると感じている。

 

真に語るべきは『公共の福祉』の語用ではないか

公共の福祉という概念は、公権力と表現の自由の境界線を絶えず再画定する機能を持つ。

そこで、2026年の時流に沿って、少し強めの将来予想を深めてみよう。

公共の福祉は、本質的に解釈概念である。解釈概念である以上、その適用範囲は社会的要請や政治的判断によって拡張され得る。そして、制限権限を有する主体は公権力であるため、公共の福祉の解釈が拡大するほど、表現の自由が司法上保護される範囲は構造的に縮小する。

この構造的非対称性を考えれば、両者の緊張関係は長期的には公権力優位の方向へ推移しやすい。大衆が静観するとは、この綱引きをやめるということであるのだから当然である。

 

もし私が公権力ならば、次のような含意のトリックを使う。

「表現は自由であります。そしてそれは何より、憲法で保証されています。しかしながら、表現は公衆の目にさらされるものであります。みなさん。確かに表現の自由は保証されるべきです。しかし、公共の福祉の観点から考えてください。公衆の目にさらされる表現は、自由であるべきでしょうか?」

感情の氾濫するデジタル空間

2026年2月11日、建国記念の日。週の真ん中水曜日に祝日があることのありがたさを感じる。

 

いま、かつてない規模で、国内デジタル空間上に感情の氾濫が起きている。これは、多次元的というよりは単純に政治的な側面が大きい。

私達は多様な考えを「持っている」し、或いは「持たない自由」もあったのだということが、この状況から私が痛切に感じさせられたことだ。

この「考えを持たない自由」というのは、2016年以降の大きな国際トレンドと親和性が高く、個人がなんの手立てもなくこの世界と対峙できないことから帰結する快適な在り方の一つなのだから、私はこれに深く感情移入してしまう。

 

これについて、少し記録をのこしておく。

 

 

追記 2026年3月3日

今年に入って二国目の弾圧・侵攻・殺戮・破壊。2026年は史実の進むペースが早い。

分断はメタ化している。感情の矛先は、一昨日の英雄の方向を向いたかと思えば、すぐに昨日の賢将の方向を向き、そして過去の私たちの亡霊へと向くのだ。

偶像に身を委ねるもの、その傲慢さに不愉快さを感じるもの、迫害を恐れ沈黙するもの、沈黙する者に苛立ちを覚えるもの。凡ゆる感情が呼び合い、響き合い、混乱し、叫び喚き、嘲笑い、冷静になれと声を出す者もその塊の一つとなる。

その空間を覗き込まずとも、既にこの世にはいくつもの地獄があるというのに。

 

追記 2026年3月21日

キューバの停電。他国への弾圧が止まらない。

WTIは2022年のウクライナ侵攻発生後の原油価格高騰期ほどではないが、2023年秋の高騰程度までには上がっている。当然そのときは、スタグフレーションの議論が活発化して景気後退懸念があった時期であり、物価上昇に対する懸念が深刻だった。今は逆に、スタグフへの懸念があまり世の中を騒がせていない。基本的に、今の楽観はこれからの景気後退リスクに対して麻痺してしまったからこその楽観に感じる。

勿論、経済だけで考えてはいけないのだが。経済は、未来を予感させることの手助けとなる。それが私達のもとにやってくるのは遠くない。

 

追記 2026年4月15日

依然として状況は悪いが、世界はこの痛みに対する感応度が鈍くなってきたようだ。

この春のホンダのEV政策の損失計上を見た。外圧によってもたらされるリスクと機会に対しての、適切な向き合い方について考えさせられる。中国都市部ではかなりEVが普及しているのを見た以上、EVは適切な環境下では現実的な選択肢として社会に普及するのだろう。ただ、アメリカの生活文化圏において、おそらくカリフォルニアやニューヨークを動かしている政治的原理と、大陸全土の生活文化圏とのあいだにはズレがある。それを象徴するのが今の大統領なのだろう。

インフラがまだ整ってない現状で判断するのは尚早ではあるが、EVを推進するという労働行為と、EVを購入するという消費行為との間に市場的ギャップがあることは想像に難くない。「誰もが嘘をついている」がGoogle検索窓という懺悔室を暴いたように、現代ではGrokが懺悔室になっている。心の中の環境政策から匂う「政治的」な意図に嫌悪感を持つ人が、まっとうに地球環境の限界を憂って今すぐ変わらないといけないと思っている人と同様に数多く存在している。(少なくとも、アメリカでは)

だから、私は感情の氾濫するデジタル空間に疲れ果ててしまったとしても、それを無かったことにはできない。

 

 

追記 2026年5月13日

少なくとも、この世界の行末と、日本語文化圏の行末を記録することしか、今はできない。ナフサがなくなった。

我が国の第一政党は友好国との関係強化を捨て、強国の機嫌を取ることを優先した。本来並行して進めなければならない自分たちの資源供給経路の確保をしなかった我が国は、何度かあった重要な契機を有効に活用せずに現在の窮状に陥ってしまったにもかかわらず、厚顔にも問題ないと言い続けている。ただ幼稚であるのではない。あまりにも、嘘をつくことに慣れすぎた。2025-2026年の第一政党は、騙すことを何とも思っていないのが見え透いており不快である。

物資が無い。穀物も減産し続けている。己が通貨価値も毀損し続けている。こんな脆弱な国がここまで世界の中でリーダーシップを取れていたのは、単に戦後秩序の旗振り役だったからだ。

 

今、我が国は戦争をしたいことを明確に世界に発信している。私たちはそれに従うか反逆するかを選ばないといけないのだが、全体主義的な国民性を持ち、「感情」で現政権を選んだ市民らは、おそらく150年前と同じ道を選ぶだろう。

 

二つの考え方がある。「私は戦争に反対する」というのは行為であり、一方で「私は戦争に参加したくない」というのは非行為である。違いはあれど、結末は同じだ。前者は近い未来の世界で顰蹙を買い、後者は遠い未来の世界で顰蹙を買うことになる。予感はおそらく当たりたくないが、当たる。

 

「戦争をしたい人たち」が私達側からは不可視である、という非対称性がある。私たちの日常現実を改変している主体を私たちは観測できない。だからこそ、私たちは起きている現象の組み合わせから予想することしかできないのだ。

 

今、日本のパスポートの有効性を縮減するように我が国の政府は働きかけている。逃げ出せない環境づくりの一環である。「いざとなれば」という考えはよしたほうがいい。

しかしながら、それでも経済は回っている。個別具体的な、一人一人の生活は困窮しているにも関わらず、経済は回っている。物語とは異なる、奇妙な現実がそこにある。

 

追記 2026年5月23日

 

国家を、「人間の生のための道具」に戻そうとする試みは歴史上何度も行われてきた。大きく言うならば相互扶助、地域共同体、自治の重視。そして小さく言うならば、連帯、日常的関係性の強調である。

私達が生きているこの世界の(この生活世界の)片隅に私達が生きていることをきちんと伝え、描写し、人々の食事や栄養といった素朴な問題をきちんと考え、都市の中から砂漠を無くし、孤立を根絶し、自己責任論やマッチョイズムを否定し、不可視の誰かによって独占されている共同資産を炙りだして糾弾することを、繰り返す必要がある。

 

選挙以前においては、「生活世界」に接続した言葉が語られる。生活世界を主題化する政治家は往々にして、当選後は生活世界についての言及を避けるようになり、実効的な措置をとれなかった事由を抽象的に説明する。つまり、 暮らしや痛み、不安、地域の問題、ケアや子育てといった語彙から、財源や成長率、国益、安定、市場、安全保障、持続可能性 といった語彙へと移行する。マクロとミクロを接続するミドルスケールの政策言語が不足しているのだ。

これは、本来は連帯から出発するはずの代表者らが、経営理論やリーダーシップ理論にすっかり侵されているからでもある。現代のリーダーは、不快な現実を抽象理念で統合する能力に長けている。誰かを切り捨てることを、最適化と表現することで、脱主題化する。未来の世代に負担を残すことさえも、現代においては投資と表現することで脱主題化できる。不誠実だからという単純な話ではなく、そのようにしてリソースを分配しているのだから「仕方がない」(といった具合だ)。

本来ならばそのような体制は解体されるべきだ。

しかし、解体されないことに慣れすぎたのか或いは解体されないためのノウハウを蓄積し続けた結果、一度安定化できたなら当面はないがしろにしても問題ないと彼らは考えるようになったのだ。

それでも、道徳という枠組み自体が現代において本当に意味をなしていないのだろうか。どのようにして、周縁化・矮小化され続ける生活世界の側として、破局のなかで意思決定をしていけば良いのか。

 

追記 2026年9月9日

ICCへの圧力。戦争犯罪を行う某国首相を支援する形での某国大統領の姿勢がますます明確化され、それは彼の国内支持基盤へのアピールになっている。
もし政治的中立性のあるICCが解体されると、大国の「力による支配」を糾弾する存在がなくなってしまう。それを既に示すかのように、米系企業が世界の金融システムの中心となっているために、この経済制裁がICCの組織運用に危機を与えている。
自国の首相がこの件に関しICCとの連帯を表明しなかったことは、彼女の「法秩序よりも、逆らわないことの方が重要」という考えとつながっている。

南米やアフリカの国でも、国際法秩序からの脱退の動きがある。

あまりにも生生しい現実。国際秩序の形骸化。国際的な連帯が形骸化していったWWIのその後のように。

 

追記 2026年9月25日

為政者のロジック、ジョージオーウェルを読んだことがない自分でさえも知っている。防衛とは防衛ではない別の何かを指す言葉である。

なぜ資源のない小国は、カナダのような道を歩まなかったのか?これは、数十年後に検証すべきことなのだけれども、リアルタイムにこの世界を体験している私たちには答えは分からない。

平和主義も民主主義も自分から勝ち取ったわけではない。ただ与えられただけだった。だから必死に守ろうとしない…という言説をよく聞く。これなのだろうか?

あるいは、思考する時間を与えないほどに労働している国民性だったのか?という言説も。疲弊した市民は抵抗を止める。だから為政者は市民を疲弊させればいい、というロジックだ。平和を叫ぶ側が逆に「過激派」と呼ばれる世の中の雰囲気が既に始まっている。市民を疲弊させ、感情の氾濫するデジタル空間をうまく誘導すれば、それはいとも容易い。そういうことなのだろうか?

「考えても仕方のないことだから」わざわざ議論するのは目的意識がしっかりしない。それをするのはダサいし面白くないし、退屈だから。いち市民がそれを言うのはそうなのかもしれない。そもそも私もまた、生活の部分と全体が繋がっている、ということについて実感を持たず、私たちの対話がボトムアップに全体を変えていく…というイメージを持つことができない世代なのかもしれない。

「自由」と「自己責任」を追求した21世紀の市民が、「連帯」を捨てる。この力学について考えなければならない。リアルタイムにこの世界の中にいる私たちは、一人一人が戦争反対を強く言えば止められたはずの戦争を始めようとしている。

土であると いうのならば

*

 

◾️ 建築を説明する価値観の多様性について

設計に関する議論を通したデザインプロセスは、多様性との戦いになる。

誰も彼も、考え方に差がある。

ミニマルで、要素とルールを整理して、合理的に建物を作るとしよう。

それは有機的な場を生み出すだろうか?

建物を様式に見立てるのならば、そこにはベースラインと変化、そしてアクセント、という構図で説明できる

それは寒い空間だ。ある意味カッコ良いのかもしれないが、怖い空間になる。

 

大事なのは陽光だという人もいる。

大事なのは明暗だという人もいる。 

大事なのは有機的なパターンだという人もいる。

大事なのは現象だという人もいる。

 

大事なのは……

 

統合される形態として、建築は他の何物にも変えがたい建築だ。建築以外に代替される形式を「模した」建物であってはいけない。

家具、緑、木などは、ウェルネスの「要望」である。これらの細やかなスケールは、器としてのベースとなる建築が背景化して、華やかな空間を生むだろう。

しかし、統合されていると言えるのだろうか。

建築はコンセプトがある。しかし、建築はコンセプトではない。

 

形態のもつ詩学は、コンセプトへの渡道だ。そこにあるスケール、リズム、水平と垂直、陽の光と照明、そういう全てを調和させる詩学によって、コンセプトは導かれる。

同時に、コンセプトとは約束である。反故するわけにはいかない、絶対的で、ぶれさせてはいけない、理念モデルである。

 

コンセプトとは、モチーフではなく、希望であると考えている。

 

より高度な(建築的な)コンセプトとするのか、卑近なコンセプトとするのか。

自然現象は深淵である。自然現象と寄り添うコンセプトは、基本的には強靭である。エコシステムは建築の全てに関連するため、親和性と受容能力に秀でている。

 

だからこそ、人・スケール・接合感・折り当て方などの建築の「形態素」をコンセプトに隣接させないといけない。均衡のカンカクとともに。

 

コンセプトだけではなく、構成である。

構成は、建築が己の端正さを証明するもっとも認識論的に正当な手法であるからこそ、構成によって芸術たりえる。

もちろん美学的な繊細さや、ある種の美人さを生み出すディテールの集合体としての建築はある。しかしそれは、そのように構成しているのだ。スケールの純度として、ディストリビューションの徹底として、構造としての挑戦として、そのように色気を構成の原理としている。

 

機械学習時代のロボット工学に学ぶものがある。

ここで私は新しい時代において、「コンセプトとは言葉と視覚の統合体である」という考え方に基づいて思考をしていきたい。概念が動的たりえるためにこそ。

  

◾️ それらの価値観を、織り交ぜる

純度ある建築を目指しつつ、そこに新鮮さと時代性のある「この世界の要求に適合した」場を作らねばならないのだ。

だから私は、小さなものからも考えることが必要になると思っている。

あらゆる装飾は、アイデアのひとつにすぎない。

アイデアを選択することが建築の純度に影響する。

デザインエッセンスを統合するためには、スケッチが必要だ。

暖かい場 を希求する人と、ミニマルな建築である建築を希求する人がいる。

 

それは、私の中ではジオ・ポンティの詩学によって整理ができている。すなわち、インテリアは世界であり、エクステリアは彫刻なのだ。 それらを越境する視覚的・スケール的・言語的な体験は、建築の豊かさに直結する。構成は連続し、外としては厳格で緊密なものでありながらも、内部は遊びと驚きに満ちた(ここでわたしが解釈するのは、光とコンセプトの重要性であり、ジョイに溢れた)空間としてこそ、みなが納得する建築デザインとなり得るのだ。

 

私が忘れないように、***の言葉をここに刻む。

" 感性的にダサいのは、そこにロジックを諦めているものが混じってるから。 "

2026.01.17