春にミッションインポッシブルを見た時は、冒頭の入りで「いかにも今っぽい設定だなぁ」なんて思いながら、斜に構えて見ていた。
しかし現実は、インプレッションのアルゴリズムによって(*1)中道右派の衰退が西欧各国で進展していて、日本でも同じ現象が露骨になってきている。
斜に構えて笑ってられただけ平和だった…ということがしみじみと感じられる。
今日秋の空のもとで歩きながら、「生活の部分」と「社会の全体」との関係性をテーマに、自身のサラリーマンとしての生活から一般的な事項を抽出したいと私は思った。
私は、この半年で情報空間に生きる自分自身をいよいよもって信用できないことを自覚し、日々が少しずつフェイクへと置き換えられていく違和感をどう言語化すればいいのか迷っていた。(そして今もそれがうまくできるのか確信はない)
◾️ ポストトゥルースとは、AIと資本活動によって駆動される情報空間の「テセウスの船」化なのだろうか?
情報空間において適切なアナロジーは「代謝」ではない。それは正確には「スケーリング」だ。一年前の知識が、次の一年に生成される多数の情報量に押しつぶされて埋没する。陳腐化とまでは言わないが、情報の重要性が相対的に低く見えてしまうようになる。
とは言っても、この半年に行われてきた資本活動はまさに、情報空間においてテセウスの船と同じ問題意識を起こさせる。
全体的視点でみるならば、この違和感は、あたかもWeb空間が、自分自身を参照して自分自身についての誤学習を繰り返しているかのように感じることから生まれている。なぜか?いくつかの理由は考えられるが、AIの生成知は本質的に外部性の内部化ではなく内部性の内部化であるという点が挙げられる。これはAIが身体や主体性をもたないことから帰結する性質だ。
この性質がこの先変わることがないとすれば、それはこの先、WWWという巨大な箱がハプスブルク家のように終焉していくことを示唆している。
部分的に見るならば、今日、今、目の前の文字情報に触れている私が、その文字情報を「誰かによって思考と責任を伴って生み出されたもの」だと信じられなくなるという喪失感である。
私たちは確かに、かつて、画面の向こう側の人物が善意をもっているのか悪意をもっているのか、推しはかろうとする判断を行っていた。
今となっては、私はもはや、画面の向こう側にいるアルゴリズムが私たちに見せようとしている幻視に対して自身の責任のどこまでを託せば良いのか、それを判断することに注力している。
「この文章はAIによって生成された文章です。知識の正確性や信頼性については保証できません」という言葉を、日々よく見ることになった。
あるいはWebで何かを検索すると、かろうじて不気味な谷を感じられる「やけに詳しい」「口の達者な」文章が検索結果のトップに出てくる。
もしその記事に広告がついていなければ、それはAIかもしれない。(あるいは、広告がついているとしても。)
私の中で、この2025年に入ってからの言語コンテンツに対する姿勢は確実に変化した。
もはや、AI情報の正確性を確認するために、より厳密な知識を求めて検索すること、それ自体が無駄だと感じるようになったのだ。
これは、情報空間の信頼性に対するクライシスである。
◾️それでも動物化したくない私たち
どのように私たちは社会を部分化して、そのプラットフォームに干渉する主体となることができるだろうか。
それでも私にできることはせいぜい、日々において情報の質的変化を追いかけながら、適切に距離を取り、適切な物理世界に裏付けられた情報空間をうまく切り貼りしていくことくらいだと考える。
「部分として」の出発点にあたり、まず私はAIとのブレインストーミングを試みた。
・[言葉の精度の吟味]これは当然必要だ
・[演じること]vs[演じないこと]
・[間接的対話(人自身についてではなく何かを通して対話を図る在り方を適用することを社会の一員でありながりも、なお肯定・尊重する)場の再構築]
・[舞踊]→緩く、小さな「見せ場」を集団の中で企画することで、主体性を回復すること。募ること。
意外とそういうことが大事なのではないか、と行動指針を立ててみた。(2025.10.24)
追記
◾️ 文化活動主体として、どのように部分としての自己の活動を他者に説明するべきか、あるいは説明できるように意識して行うべきか
作品活動をする時に、作品が全体性(Totalität)を過度にリアリスティックに再現または反映させるだけの存在として説明してしまうことは、かえって現実を変更する原動力あるいは現実を否定する芸術の自律的可能性を失わさせてしまう(ルカーチの考え方に陥ってはいけない)。
全体と部分との関係は、あくまで、相互に浸透し合うものでありながらも、完全に合一なのではなく、相互に深く影響しあうふたつの自律的な世界観の共存でなければならない。
よって、全体の物語である社会の状況において、私の部分的世界が過度に説明されてはならない。(2025.10.26)
◾️ 意味の限界化
AIという存在が私たちにAIという存在自体の「ある現れ方」を送ってくる。この現れ方は、時代性のテキストや印象、経験の中に組み込まれ、「こういうものだ」と時代を表象する。例えば、上の私のAIに対する解釈はまさに、AIという存在が私に開示されている有り様である。
それに対して、どう応答するかは私たちに委ねられている。 人間の自由とは「存在の送りを拒絶すること」ではない。AIというテクノロジーから逃げることはまさに「動物的」である。
この送られてくる有り様に私たちがどう応えるか。肯定的に引き受けるのか、否定的に引き受けるのか。判断は私たちに開かれている。
この応答をハイデガーはAntwortと呼び、それが「詩的思索(dichtendes Denken)」や「芸術」の根拠となることを示唆していた。
そうしたメタ芸術が主流化し、少し前の時代性を象徴していた芸術がクラシック扱いになる。繰り返されてきたことがまた起こるのだろう。
私は、次のように質問した。
「テクノロジーが地球的な規模で広がってしまえば、自然も歴史も人間自身も、テクノロジーの無・世界性に耐えられないのではないかとハイデガーは考えていましたか?
AIは本質的に確率的であって、「計測」と「境界」を確率的手法にて再現しているにすぎない、と感じます。
この世界の芸術や文化はAIのscalableな生産性によって、(それは100年前の第一機械時代と同じようなプロセスで)意味論的な危機に瀕しています。これはこの自然や歴史、人間自身にとって「耐えられる」ことなのでしょうか?」
AIはこう応える。
AIは確率的予測の体系として世界を「意味」ではなく「相関」として再構成します。 そこには「問い」も「開示」もなく、ただデータ的な世界の反射像がある。 つまり、AIのスケーラブルな創造行為(生成)は、世界の「存在を問う」行為ではなく、 世界を「統計的に再配置する」だけの出来事にとどまる。この構造のもとで、芸術や文化がAI的生産性によって量産されるとき、人間は**意味論的飽和(semantic saturation)**に直面します。
ハイデガーは一方で、「危険のうちに救い(die Rettung)が宿る」とも述べています。すなわち、技術が極限まで世界を無化するとき、人間は逆説的に「存在への問い」を回復する契機を得るのです。つまり、存在がまだ語りかけている限り、耐えることは可能であり、問いの再燃こそが、人間にとっての「耐える」という行為の本質だと考えられます。
私は、この終末論じみた回答に対して、「次の質問を奪われてしまった」。(2025/10/30)
◾️欲求の内部化
資本活動は、欲望と要請を果て無く内部化していく一連の活動と言っていい。時代の移り変わりにより、人間の感情を人々が求めているとすれば、資本家は人間の感情をパッケージ化して資本活動の対象に組み入れる。また同様に、人々が人間の関係性を求めているとすれば、人間の関係性に対して金銭的な価値が報酬づけられるプラットフォームが形成される。その意味では、現代は「感情の時代」なんて生優しいものではない。人間が人間的であるものをマーケットに組み入れる一連のプロセスによって、私たちがAIによってより解釈しやすい対象となる、私たち自身のより分かりやすい「意味づけ」に自身を馴らしていく時代である。
例えば、括弧付きのアイデンティティやパーソナリティは既に資本によって買うものである。私たちはそれらの「所有者」であり、コミュニケーションの材料として、自己のリストのもとで管理している。
それゆえに。私たちを人間たらしめるものを問うことは意味があるのだろうか。私たちを人間たらしめるものを一つ定義した時に、それは個人の内側と外側に架かる様相で存在していることが多い。それらを切り離し、外側にかかる部分をプラットフォームに載せることで私たちは自己の人間性を資本化し、その代わりに短期的な報酬を獲得する。この作業の結果、個人の内側にある(変えようのない・奪われようのない)ものは保たれる仕組みだ。その中で人間たらしめるものを問うとすれば、それは生産性のあるものと対をなすどうしようもないものを問い直すということなのだろうか。
人間性の問いの中で、意図ならざる表出を、少しだけ振り返ることが必要だ。(2025.11.05)
◾️ 生活と社会「ではなく」個人と国家
これまでは個人と国家、ではなく生活と社会に関心があった。一方で、個人と国家に関する議論が、ますます重要性を帯びるようになってきている。
個人と国家の議論が行われなくなったことで「不可視化」させられるものがある。その一つを挙げると、それはヒエラルキーだ。ここでいうものは、不平等や格差と混同されてしまいがちだが、それとは確実に異なる。「個人と個人との間にある価値の差異: 水平的ではなく垂直的な差異」としてのヒエラルキーは、現代では不可視化されてしまっている。「強制」や「支配」という社会関係は、不平等や格差の議論で語ることができるので可視化されている。一方で、力ではなく、精神の中にあるヒエラルキーについては不可視化されてしまっている。
たとえば、私たちが「外国人に抱く感情」は、ある種私たちの生存条件と受けてきた教育、家庭、宗教的価値観によってさまざまである。そこに「力」関係(強制や支配)が無い現代の法的枠組みにおいて、不平等や格差については簡単に語れる。一方で、ナショナリズムでは、その議論で回収されないもの…私たちと外国人との間の精神世界的に不可視化されたヒエラルキー(これは偏見と言えば偏見である)がもたらす社会作用を、「不可視化させたまま」強化することが可能なのだ。それが、個人と国家の議論において語ることが可能であり、生活と社会の議論において語ることができなかった部分である。この考え方について、人類学的な事実として捉える立場として私はルイ=デュモンに共感する。今日の状況に置き換えると、国家のリーダーとして「まともじゃないものたちに限り」「排除すべき」と表明することは、その言葉の前提に存在する"峻別の権限が我らにある"と表明することである。
まさに私たちは、ヒエラルキーが現代の「平等で格差のないことを指向する社会に」立ち現れる有り様を、それを可能とするような「社会全体」の在り方が形を成していくプロセスの只中にいて観察することができる。まずは、そのことを確認していきたい。(2025.11.16)
◾️ 客観的な「私」
真正でないものが蔓延る世界の後に来たる世界、「それは真正ではないですよ」と私のことを「それ」呼ばわりされ、私の実存が揺らぐ世界のことについて考えてみる。
これはある日突然来る。
これは単なる侮辱や疎外ではなく、存在論的な身分剥奪である。世界内存在としての「私」 が、そこにある対象へと格下げされ、その時私は自尊心を奪う/奪われるという問題を超えて、もはや誰かとして認識されなくなってしまうことになる。
「疑うことは認識である」、これは認識論的には正しいのかもしれない。 しかし、私は今、存在を疑うことがもはや主体を保証しない世界にいることを自覚してしまった。なぜなら、
〈疑い〉
〈思考〉
〈内省〉
これらすべては既に技術によって、 「確率的に再現可能な振る舞い」 としてモデル化されてしまったのだから。「疑っているように見える存在」 と 「実際に疑っている存在」 の差異が、「無い」のだ。正確に言えば、その世界の保持される状況下において、その側から見れば、その違いは消失したのだ。
もし。
自己とは何かを保証する真正さの定義が刷新され、旧時代に取り残されたのちに、とあるインシデントで「私」が消失する日が来たとしても「私」は抵抗できるだろうか?
サイエンス・ノンフィクションと呼ぶべきだろうか。代替不可能性や個体性というものはとても危うい概念であり、個体としての履歴、記憶、発話の様式等が確率的な文脈に回収されれば、当然それらはコピー・再生成可能になる。その結果、「真正さ」の定義はこう書き換えられる。
「真正であるとは、 認証され、整合し、異常値でないことである」
AIが[あなたは「真正ではない」と判定されました]と応答すれば、私は手続き上「それ」とされるだろう。その時、この世界で活動している私は、仮想の個体性と実存を担保できるだろうか。
私は、実際には存在しないものと一体何が異なるのだろうか?
私が私を存在しないものと判断したとして、抵抗を止め、仕組みの中での私が終了したとしてもなお、持続している生。その活動は、社会の「もともとの」全体からは排除され、場所を変えて新たな全体において定義される。合理的に生きる「あなた」の目に届かないところにいる「それ」のことを、ともすればあなたと位相をずらした全体のなかで生きているかもしれない蠢きとして、感じられるのだろうか。(2025.12.18)
(*1)参考: https://www.t.u-tokyo.ac.jp/press/foe/press/setnws_202110041724379352821094.html