Dossiri - Kamaeru

建築・都市・生活の領域に関する知識の体系化、技術に対する考察、書籍レビュー等

〈反復〉と建築(1)... 2014-2020, 大学時代の設計論的思考より

 

〈反復〉は、はるか昔から強固な精神の表れとして、鍛錬として、(あるいは狂気や執着として)、ある種の能動的な象徴として設計に使用されてきた。…その点において〈反復〉の概念は、磯崎にとってのタナトスコールハースにとってのロボトミー同様に、設計に先行するコンセプト、基底思想になりえる。

 

建築は、その要素の配列の問題として反復が語られるとき、反復の美学に対置される形で非反復の妙が語られる。

 

反復は、本来的な意味での「秩序」の手法である。建築デザインにおいては自然科学のように「与えられた秩序」に従うのではなく、むしろ仮想的な「秩序」を設定し、それを遵守することによって得られる建築物の効能をもって「秩序」を評価する、という創造的プロセスが取られる。建築デザインの「秩序」は2つの側面を持つ。一つは、道具の開発やモジュールの開発、手順の開発など、建築の構法に関わる「秩序」。もう一つが、空間の広がり・明るさ・ゲシュタルトアフォーダンスなどを効果的に発現させるような、構成に関わる「秩序」である。

反復は、モジュールに関係する。建築のスケール問題を考えれば、建築が規模拡大すればするほどに、その実現性を高めるために、あるルールを反復するという「秩序」が設定される。ゆえに、反復は、コリドーやドミノプランのように、建築空間を展開・拡大するための基本思想でもある。

 

ここで、技術としての反復に着目しよう。反復のうちの一回に着目すると、その「一回」は機械の発明とともに省力化されていった。技術の発達は歴史上、省力化(労働の収縮)という動機づけを主としている。近代までは少なくともそうであり、また機械がそうであった。近代の後半では、計算機の登場によってそれは知的領域にも影響を与えた。そして現在、反復学習によって獲得される人口の知性、ヒューリスティックな判断を行う機械や、パターンの再生・創造の技術に関心が高まっている。

 

 

反復は、原理的には、人間の最も基本的な外部への干渉戦略のひとつである。

行動としての反復・思想としての反復・知覚(されるものの美学)としての反復、そのそれぞれが、人間の基本戦略のひとつであった。

 

建築の(形態が孕む)反復性は、たとえSociety5.0が最も理想の形で達成され、あらゆる建築部材がオーダーメイドとなるという夢想がまさに現実のものとなったとしても、建築物の持つ全体秩序のうち、そのイデアの析出のためにこそ着目され続けるだろう。

 

 

 

 

ここで、3つのの提案をしていきたい。

 

一つ目は、「彫塑性のある形態を作るBIM」の提案である。

 

現代彫刻が持つ美は、「〈あるがままに不可思議〉という様相」の保持として説明できるだろう。すなわちそこには情報が存在する。言い換えれば、そこには経歴が存在する。経歴とは、私たちがそれの正統性として認識する構造、或いはそれ自身が持つ潜在的な原型において、物質が獲得する即物的な意味のことである。

その意味を読解可能な(或いは表現可能な)ものとするための概念として、彫刻には、〈反復≒マテリアリティ〉と〈非反復≒アーティキュレーション〉が共存する。この点について、少し述べていきたい。

簡単に言えば、マテリアリティは対象がその内在するパターンにおいて単一に認識されるという性格のことであり、アーティキュレーションとは対象がその内在する構築の様相において単一に認識されるという性格のことだ。

本来、ものは「それ自体としてしか存在できない」ため、「ものの反復」は原理的には不可能である。特に、自然物は時空間的に他の何かに取って代わることも取って代わられることもできず、代理性は認められない。例えば、フッサールは反復されるのは実在的対象ではなくイデア的対象(幾何学や数)と考えた。

 

ゆえに、ものがマテリアルとして認知されるためには必ずそれ自体が脱個体化するために反復という操作を伴う必要がある。増殖しなければ、物体はマテリアルとして認知されない。ものが個体としてではなく集合体として顕現するときに、それはマテリアルとなる。

 

そのイメージしやすいモチーフは、受精卵だ。受精卵は、細胞分裂を行うことで「単一」であることを放棄する。しかし、その細胞分裂を行うことによって初めて「身体」が組織化されていく。この中間の状況、すなわち部位ごとの異化が発生する直前の「万能でポテンシャルに溢れた未分化状態」の緊張感がマテリアルをマテリアルたらしめる。(奇妙なことに、「単一性を放棄することで単体性を獲得できる」。)

 

彫塑されるものには、かならず原木に相当するマテリアルが存在する。そしてそれは、単一ではないことによって彫塑が実現可能となっている。

 

そして、ものは「それ自体として存在する」ことを最大限認知できる状態で他者と関係を結ぶときに、「差異」が出現する。

 

彫塑性のある形態を作るBIMとは、

建築物を形態として構築する際に発生する問題である部分と全体の関係の一つの調停手段として、原木的〈オブジェクト〉のマテリアル的〈操作〉に着目することである。

 

「彫塑としてのBIM」はつまるところ微分作用(極限的に小さな区間での差異)をどのように扱うか、一つのマテリアルの積分作用(極限的に小さな区間の性質の結合的統合)をどのようなものとして取り扱うかの問題に終始すると考えられる。このようにして、彫塑されるものは設計対象として〈言語化=メタモデリング〉することが可能となる。

 

 

 

 

二つ目は、「構成から生成へと向かう空間設計」の提案である。

 

これは、破壊を伴う反復を必要とする。構成主義は構成したものを破壊しない。この非破壊性こそが機械時代の象徴であり、造形の根拠でもあった。

この時、設計において、生き延び得なかったものは語られることはない。

 

しかし今や、建築においても淘汰のプロセスを語ることが必要となってきている。それはすなわち、時間性を考慮するということだ。

 

「この世の中は破片でつくられる」という構築主義的な思考において、「破片」はそれ以上に破壊できないという無意識の諦念を含んだ対象である。さて、この構成において、破片は時間性を持っているのだろうか?

反復には、同じ数の破壊が必要だ。それが、ヒューリスティクスのルールである。

 

「生産と破壊」のアイデアは、生物の自己破壊免疫機能に着想を得ている。個々の断片たちの中に、封建的に・特権的に生存が保証されている個体があるわけではない。全ては等しく重要であり、同時に等しく価値がないという世界だ。

ただし、人間の住まいの歴史における淘汰の足跡を追ってみると、実建築の破壊を代行するのは人間ではなく自然災害であった。そこで行われた自己調整と適合・順応は、建築としての使命(内部の人間を守ること)を果たすための結果である。

今や現代においては、経済的自由競争が社会にとって不適切なものを破壊している。

 

(もっとも、そのようにして維持されうる全体系・・・いまのシステムが、深刻な経済的破局を「基本仕様として」内包している以上、その破壊を「自然淘汰」の神話になぞらえて説明するのは不適切かもしれない。私たちが依存しているこのシステムに、自己修復作用があると保証されてはいないのだから。 )

 

逆に考えれば、破壊の反復には生産の反復が必要である。その均衡によって、回数性よりもむしろその双方向的な現象であるという性質によって、空間の中に部分と全体の関係が維持される。

 

 

 

三つ目は、「反復とは、集合的無意識と分かちがたくむすびついている」という都市への考察だ。

 

ある主体にとっては一回しか体験されない一連の行動があったとして、それは、別の主体にとっては反復して生起している事柄であるということがある。その例の一つが、都市と人間との関係だ。

都市の中のある現象が(都市によって)反復されるということは、都市における人間の集合体の個々において一回の現象であることとは区別される。

すなわち、都市においては、ある反復を考えることができる。先に述べた〈反復=マテリアリティ〉の観点で言えば、個々の現象が脱個体化していくという点で反復的な事象が、都市においては都市の記憶すなわち集合的無意識の形成に寄与するということだ。

 

これを説明するためには、ミクロとマクロの関係をきちんと理解し、そこにある確率的解釈を考慮しつつ、「軌跡の重なり」とも呼べるある特徴線を記述しないといけない。

 

もし、都市における諸実体、諸景、諸現象について語れる主体がいるのならば、それは、都市における現象の同一性と物質要素の個体性が瞬間的には持続していることを認め・それを観照する精神の働きによって「語る」ことが可能になる。その主体は、集合的無意識に導かれて都市で出現する〈シークエンス〉に基づき、新たな展開の出現を期待する。都市において、「反復されることによって」「劇場的に」都市は表象する。

 

都市は快楽の場である。それは、都市における〈シークエンス〉が開放と閉鎖のコントラスト、あるいは明と暗のコントラスト、あるいは緊張と弛緩のコントラストが「ひとまとまりのひとつとなる」ことで、受動的に、それらが総合されるからだ。その弛緩は緊張により快感となり、その緊張は弛緩の中で快感となる。都市における人間の心的生活が、〈シークエンス〉によって支配されているのは、そういうわけだ。

 

 

もう一つの例が、多木浩二が「生きられた家」と呼んでいた〔体験された現在としての家〕と、人間との関係である。習慣、そしてハビトゥスの問題としての反復だ。

 

 

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以上述べたことは直接的には思考の断片の集合に過ぎない。したがって次の段階において、これらの反復は、ハイデガーニーチェライプニッツベルクソンフッサールドゥルーズデリダによる反復の概念に関わる省察を受けて反省する必要があるだろう。

 

→反復性設計論(2)に続く

 

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