Dossiri - Kamaeru

建築・都市・生活の領域に関する知識の体系化、技術に対する考察、書籍レビュー等

建築における部分と全体の関係について

このような牧場での炊事は、町でのように衛生的にできないことは言うまでもないことであった。ニールスはこの状態を注釈して、次のように言った。「食器洗いは言葉と全く同じようなものだ。われわれはきたない洗い水と、きたないふきんとで、それでも結局は、皿やコップをきれいにすることに成功している。同じように、われわれの言葉の場合にも、不明確な概念とその適用範囲についての限界さえはっきりしない論理しかもたずに、われわれはそれを使って、われわれの自然の理解を明白にすることにともかく成功している。

(ハイゼンベルク,「部分と全体」 p. 220)

 

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学問の探究においては、事象の理屈を模索していく中でふと地平がひらける瞬間がある。そのときわたしたちの中に湧き出る感情を、どう言えばいいのだろうか。

 

ハイゼンベルクの著作、「部分と全体」において記録されているありとあらゆる対話の中に、その手がかりが隠されている。

 

理論が生まれ出る瞬間について少し説明しよう。

 

脳内には、客観的事実が記憶されており、また、その他様々な仮説や検証結果、その時に観測した物理的振舞いの軌跡や、特徴についてが断片的に舞い乱れている。それらは、理論の「部分」になり得るし、あるいはならないかもしれない。

継続的で最新の注意を要する思考の作業を重ねることで、緻密に、論理的に、数学的に、厳密に積み立てられた「部分」は、ある段階からその意味的なつながりを示唆し始める発光体へと変わり始める。不明確であったすべてが点滅し始め、お互いの関連について、それに従うべき何かを形取り始めるのだ。

そして、「全体」に向かって、断片から組織へ、跳躍すべき時が来る。

その際の"跳躍"は過酷であり、集中を必要とする。

 

そして、その跳躍が結実したとき、理論がもつ「全体」のもとにあらゆる部分と、かつてのあらゆる矛盾が統合される日が来る。

さらにいえば、その瞬間を得た物理学者は、その深淵さと、必然的とも思える理論の完全性、しかしあまりに少ない言葉で凡ゆるものを説明するという偉大さに気づいて、そこに立っている。

世界が、思考する自身に与えてくれたものの豊かさに気づくとき、その論理の中にあるものについて、私たちは一体どう語ればよいのだろうか?

 

ハイゼンベルクは、この本の中で、「偉大なる関連」と表現している。

 

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この「没入」は、夢中になるという意味では恍惚的ではあるが、ここでは、世界に対する理解がより充実するというよろこびである…ということに、より一層の注意を払わなければならない。つまり、反射的な快楽というよりはむしろ、より静かなる思考を促す──こころよい、静寂であるということを、私は強調したい。

 

 

ここで一つ例を挙げるならば、自然科学的な省察と、形而上学的な省察には共通点がある。

 

思推・客観的省察、および意識に対する思考 ── 世界の中で私たちが意識する不動の事実と人間との関連について考えるとき ── そのような意味での客観的省察を私たちが繰りかえすならば、それ即ち何が善であるかをおのずから導く。それを仮にAとしよう。

そして、わたしたちがより包括的に(より「正しく」)世界を記述するもの、偉大なる関連とも呼ぶべきものをより深く理解する瞬間があるならば、それを仮にBと呼ぼう。

……Aは、"どうあるべきか"を模索する思考の傾向であり、Bは、"どうあるのか"を模索する思考のプロセスだ。

 

真実やら真理やらは、言葉の綾でしかなく、重要なのは「極端に抽象化された事実らしきもの」であり、それは本人が思考の過程の上でそこに到達したときに当人のなかで「事実」になる。

A,Bともに、意識の明瞭さと、客観的事実からの演繹は必須である。そうでなければ、あるいは中途半端な帰納にすぎなければ、それは事実ではなく、単なる信じるものにすぎない。あらゆる論駁を許さず、厳密に確認され、そしてそれが世界の法則と照合することについて、他者からも認められると確信できるような事実をこそ、真理だとか真実だとか呼ぶべきなのだ。

 

しかしA,Bのどちらもが、その発見にあたって、ある感覚を呼び起こす。私はこれを、世界と自己との隔絶性が薄くなったような感覚、言い換えれば〈全体感覚〉と呼ぶことができる。

(語弊が多い言葉を用いているため注釈するが、このことは、宗教的、あるいは神秘思想的な意味での世界との接続・交信といったものではない。また、全体感覚というと語弊として、ポピュリズムのようなものを想起するかもしれないが、この感覚は、あくまで社会の一員であることの役割感覚とは無関係のものである。)

(また、ここでいう「世界」とは、私たちの知覚の外部に広がるものであり、その全体の中の自己ではない部分のことである。)

原則として、自己はアイデンティティを保持しているため、世界と分離され、一存在として認識される。デカルトがかつて「我思う、ゆえに我あり」として自己のみを唯一信じれるものとしたその前提として、自己でないものという存在について、私たちは疑いを晴らすことはできない。一方で科学者は、科学的に疑いようもなく、必然的に導かれた複数の定理が、相互の関係において奇跡的な結びつきを有する時、感動するのだ。

人間の思考はどれだけ明晰であっても不確かさを持ち、自己が考えついた「意味」や「役割」といった便宜的概念には限界があり、そうやってエゴは、世界と自己との隔絶性を紛れもなく感じ取っている。

科学者は、「断片的な事実がまるで、ある役割を果たしてある構造を生み出しているかのような興味深い状況」の際に、一瞬、この隔絶性が解体されたかのような錯覚に陥るのではないか? 私は、この感覚を〈全体感覚〉と呼んで取り上げたいと思っている。

 

AとBの、どちらにも優劣といったものはない。

ひとは、真理によっても、あるいは意志によっても、世界と自己の生を関連づけることができる。

 

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〈全体感覚〉は、科学者だけでなく、建築を愉しむあらゆる人の中で成立し得る。なぜなら、建築は空間認知と行動との関係性を、素朴な形で取り扱うことができるからだ。

 

空間意識の向かう対象は、あくまで現実である。にもかかわらず、現実は理解すれば理解するほどに、「かつてのわたしたちの現実」からは遊離していく。この過程はまるで航海にも喩えることができるだろう。到達したときには、すでに遥か遠くにいるのだ。

 

いわば、夢想である。

「ある場所までは自身で辿り着かなければいけない。しかしそこまで辿り着けば、世界の側から、私に世界とのつながりを教えてくれる」

このような空間を作れたら。

 

その空間にいる自身を想像してみる。

空間は、私の身体の行為に導かれながら同時に現出し、そして消失していく。しかし、私は、かつて見た断片的な世界の姿をもはや思い出せない。世界は今や、かつては曖昧であった不条理を克服し、新たな明確さを獲得した……。

その刹那の。

 

実証主義者にとっては、世界を、明白に論ずることができる部分と、沈黙を守っていなければならない部分とに区分するという一つの簡単な解決法がある。したがって、ここではまさしく沈黙していなくてはならないのだ。しかし、これ以上無意味な哲学はおそらくないだろう。なぜなら、たしかにわれわれは何一つとしてほとんど明確に言うことができないのだから。全ての不明瞭なものを削除してしまったならば、おそらく全くおもしろくもない類後反復だけが後に残るだけだろう。(同上, p. 342)

 

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1. 出発点

これは仕方のないことなのだが、

建築について語るときに重きが置かれるのは、この世界の秩序(どのようにあるか)ではなく、秩序化(どのようにあるべきか) である。

実用的秩序、社会的秩序とも呼ぶべき擬似的秩序を建築設計は取り扱う。

 

冒頭で述べた、ある種の〈全体感覚〉を伴うような、祝福された建築行為などは存在しない。この社会的秩序の中には、ただただ個々の「意図」があるのみである。

幻滅し、夢を捨て、現実主義になるということ。探究の学問としての建築学に期待をせず、実用の学問として建築学を受け入れること。

これが、建築に対する私の実感覚である。言い換えれば、私にとって何が不安であり何が安心であるかをコントロールするために作られた「事実」である。この「事実」のなかには、いったいどれほど多くの固定観念が含まれているだろうか?

 

 

2. 問題提起

語弊を恐れずに言うならば、本来、建築設計とは思考実験でもある。

(設計図には、確実な予測に基づく部分と、不確実な予測に基づく部分がある。製品としての品質確保が最重要事項となるとき、高精度な予測と解像度の高いイメージが必要となり、それゆえ思考実験的側面は弱くなる。)

(建築物は、一品生産的側面を持つ。その敷地・状況の差異があるからこそ、建築設計には予測の再検討、手法の応用、状況への適応、調査と観察、想像とリスクヘッジが必要になる。ゆえに、あらゆる設計は事後的な評価と事前の評価とのあいだに深い溝がある)

(なぜこれが語弊を含むかというと、建築物の生産は多くの場合において品質上の失敗が許されないからだ。しかし、それでもなお、デザイン上の失敗作に溢れかえるこの社会において、やはり1つの実作は1つの実験に過ぎないのである)

 

そして、設計プロセスには跳躍点がいくつかあり、その経過のなかにあるいくつかの提案と合意、その中にある設計者としての納得、クライアントとしての納得が建築的思考のフレーム下で重なることがある。

 

建築の可能性を拡張・探化させんとする、あるい発見的なプロジェクトにおいては、

「状況的に思考している私」と「原理的に思考している私」の中に、思考が按配され、その対立=矛盾関係に、建築の「出現」がある。

 

── 冒頭に述べたが、建築における〈全体感覚〉などは存在しない、という固定観念はあまりに強力である。

そもそも、経験したことがある人間にしか、Bの感覚は分からないからだ。多くのデザイナーが建築を志すきっかけは、Bの経験であることがしばしば美談的に語られる。そもそも実学である建築を学びながらも、建築を原理的に思考することの価値について「彼ら」が確信を抱いているのは、いったいどうしてだろうか? 私はそれが疑問であり、建築の原理的思考の可能性と妥当性について関心がある。

 

── この秩序はあるか、あるいはないかだ。しかし貫かれるというのは、どういうことなのだ?

(同上, p. 344)

 

3. 建築における原理的な思考の歴史

そこで、建築における原理的(B的な)あり方を主張した思考の歴史を振り返ってみる。

スコットが主張するには、

「純粋かつ直接に知覚された建築は、光と陰により表された空間・マス・線の組み合わせである。これらの僅かな要素が建築的経験の核心をなす。文学的空想や歴史的創造や良心の詭弁や科学の計算は、この経験を取り巻き、豊かにはするけれども、それを構成し決定することはできない。」

彼の教条に従うならば、クロンボル城にハムレットの亡霊を見るか否かは建築的経験にもコントラストをもたらすが、その壁面の隅に潜む暗闇に想像を働かせる私たちの情感は、建築の形式性の問題とは切り離されているようだ。

形式化においては、もしそれがすこしでも価値についての問題を取り扱う場合、…世界の中心的な秩序に対する人間の関係が重要であるのではないか? それならば、〈建築的経験の核心〉とは何だろうか?

 

 

カーンの空間哲学には、スコット的なフォルマリストとしての思想側面と、現象学的、実存主義的、実在論的な姿勢がある。カーンの空間は基本的に不安である。

カーンにとって最も重大な問題は、「ジョイ」であった。これまでの自問自答を通して、わたしたちはこのジョイの正体について、以前よりも深く理解できるかもしれない。

 

 

シュマルゾウが言うように建築とは内部のあるものであるがゆえに他の感覚的快楽や美をもたらす造形物と差別化される。 

 

 

一般的に、部分と全体に関する建築論を行えばそれは以下の五つに大別されるか、そのいずれかに回収される。

(i) ブリコラージュや、共同的世界 (gemeinschaftliche Welt)のような部分同士の(偶然の)組み合わせだけで成立する自律的様相。

(ii) フラクタル(自己相似、再帰的構造)のように、スケーラビリティ(部分を拡大しても定性的特徴が保存されるという性質)を持つ関係や、多重入れ子の関係(各領域が、スケール毎の系として同時に成立している様相)など。

※言い換えればこれは、「部分は全体よりも形容が単純である」という私たちの一般的な感覚を転覆させるような構造を是とするもの、とも言える

(iii) 単位としての要素を定義し、モジュールのようにコーディネートの問題として部分と全体を解釈することで、複雑な状況を単純化し秩序立てる技術。

(iv) 音楽の概念を利用することで全体を構築する感性的アプローチ。

※部分と部分、そして部分と全体との"呼応"を取り扱うアプローチとも言える

(v) 中心/脱中心/多中心などの構築パターンを活用することで部分が全体の中に(集まるように、あるいは分散するように、)秩序づけることを目的とした場所論・ネットワーク理論。槇文彦の群造形概念のような形式論。

 

多くの議論がこれまでに行われてきたのだが、その殆どが、"関係性"ないし"相互作用(Wechselwirkung)"という言葉を多用する。

 

(わたしは、関係性という言葉を使うことによって、…すなわち、構造にこそより絞った焦点を当てる事によって、「関係」の部分的な問題を主題から排除してしまうことを危惧している。つまり、実在する関係への眼差しが失われ、関係性に対する理論が形骸化してしまうことを恐れている。

たとえば、「関係」を認めるために解決する必要のある幾つかの議題、たとえば、①存立の問題②因果の問題③価値の問題④形式の問題⑤浸透・同一化の問題 等の種々の重要な部分的問題を、考えないままに議論を進めるといった風にだ。

本来、これらを考えることを放棄してはならない。)

 

これより推察するに、部分と全体に関する議論の多くは、特定のシステムの自律性を議論しているにすぎないのではないか。造形のアイデアとして、あるいは全体という概念を復興させるために、あるいは機能主義からの脱却のために。

ゆえに、概念を延長して語ることができること(いかにあるべきか:A)については雄弁だが、個々の関係性が私たちに何をもたらすのか(いかにあるのか:B)について語ることは稀だ。本来ならば、「世界の中に位置づけられる」ということが、全体と部分とを並立的に感知するために重要な認識であるはずだ。

 

※私は、全体について語ることは極めて重要であると考えている。私たちは意図を持って建築を作るべきであり……そのとき全体について考えることは展望を開くことであり、指針であり、自らを誤った方向に進めないために必要な物であるからだ。

※関連なき全体性(断片化)が現代の市民主義を投影している、「であるがゆえにそれは新時代のすばらしい全体性である」などといった主張は、私は共感できない。つまるところ一つ一つの「関連」が私たちにとって場所を見出すための基礎となっているにも関わらず、それを知っているのに、最初からそれを考えることを諦め、抑制しているかのような姿勢には共感できない。

 

 

ここまで、建築における、原理的な(=B的な)思考について、しばしの間考えてきた。

これらが、これから提案する設計方法のヒントとなる。

 

 

4. 建築における〈理解〉の問題

そして〈理解〉の問題について今まさに述べようとしていることは、建築における「全体の中の部分」として人間の「空間を理解するという体験」をもたらす空間は、すなわち空間の三体的問題に属する「関係性の気付き」のダイナミックさと真正さによって実現される、ということだ。

 

建築内部空間の化粧などは瑣末な問題に過ぎない。

建築内部空間で発生する、空間把握能力を有する私たちが体験する 小さな〈全体感覚〉を、設計手法の中心に据えてはどうか、という提案をしてみたい。

 

場所と結節、路と軸(あるいは旋回)、領域とディストリクト、これらはそれだけではダイナミックでも真正でもない。

 

重要なのは三体性(α,β,γ)である、と私は気づく。すなわち、私から見た場αから空間βへの関係ではなく、かつ私から見た場αから空間γへの関係でもない、しかし別々に出発し必然的に導かれたβと、同じく必然的に導かれたγとが、驚くべき出会いを再びなすときに発生する「三体性」に、冒頭で述べた〈全体感覚〉を建築ユーザーが体験する足掛かりがあると思われる。これは、建築行動学における"定位"の概念の応用である。

 

この論は、他の建築論ではかつて指摘されたことがないが、二つの設計論に関係している。

一つ目は、アレグザンダーが指摘した「ツリーよりもセミラティスのほうが豊かである」という事象である。セミラティス構造そのものではなく、セミラティス構造その他これらに類する構造として述べられてきた「多様な空間の構造」が誘発する体験のほうに、本手法は着目している。

二つ目は、コルビュジエのプロムナード的建築である。プロムナード的建築の導く建築体験は、部分的には本手法に近いものがある。コルビュジエのプロムナードは、庭園のように作為的無作為を演出するのではなく、あくまで建築の「空間・マス・線」の構成力によって出現しているのだから、視覚依存的である。プロムナードの手法は、記号連想的な全体感覚を意図するシンボル手法よりも、より直接的に、より強力に、より普遍的に、私たちの空間定位を導く。

 

5. 世界内存在と建築と

「それによって世界を経験する建築」とは、まさにカーンなどの建築の性質であるが、スコット的なフォルムの問題だけではなく、部分と全体の問題であるともいえる。

 

部分と全体を考えるということは、世界を関係性を逐次定めることで捉えるのではなく、関係性同士の関係性をも理解しようとすることである。これは、システム思考と呼ばれる。関係は、ただあるだけの関係性による弱い繋がりのモードと、それらの関係性が有形化し実効的な太い帯となったモードがある。モードの遷移からなる、世界の様相的な現象パターンを考えることが重要だ。ひいては、そこから部分と全体の同一性や相互浸透性について考えないといけない。

 

それでは、空間の「関係性」をより必然的なものにするための秩序とはなにか?

以下の二つのテーマが、今後に展開され得ると考えられる。

・①身体②場所の力③結構、という関係構築を担う主要3論

・静謐さの極大化条件

 

次に、この出発点から思考を展開していこう。

 

 

6. 身体がもつ全体感覚から類型を導く。

本来私のために存在していた身体的要件の集合と、その要素からの直積を検討しよう。

 

私は「室」にいる。この室は、光と影により表現された、閉じた場所であるとしよう。

私たちにとって、室がその内部ではなくその他の領域を必要とする理由は何だろう?

 

室による室の「要請」という動作を空間操作の中で新たに定義すると、すなわち以下のような操作因子を想定できるようになる。

 

一、その空間が窮屈であること。身体感覚として、圧迫感や狭さを感じたり、窓などの開放的な要素がなかったり、人間の数の多さに対して空間の広さが確保できていなかったり、あるいはコミュニケーション上の理由で(険悪な雰囲気になるなど)部屋が狭く感じることはあるが、

それが「窮屈である」という感覚に結びついたとき、人はその室から抜けることを欲する。

 

二、一方的に監視されること。一方的に弱い位置に居続けることの不安は大きい。弱い位置というのは動物的な本能に基づいており、具体的には、「見られる」「覗かれる」「眺められる」という要素と、「隠れられるスペース」「死角」「見返せる」といった要素がある。これは、プライバシーとも関係している。プライバシーとは、「誰にも知られないでいられる」ことや、「誰にも干渉されないでいられる」こと、「自分だけの場所があり、その場所を自由にできるし、荒らされることがない」ことなどを相対的に表す、個人領域に関する性質だ。

文化的観点からすれば、身分の異なる人間同士の間に特に強いプライバシー上の分離が図られる。主人と賓客との分離、客同士の分離、下人の分離など、地位・社会階層・立場に基づく分離がこれにあたる。

 

三、衛生を獲得するため。人は幾つかの観点から室を分離する。

たとえば、機能的観点。清潔な水を獲得するためのスペースや、食事のスペース、就寝のスペース、排泄のスペースなどは分離され、個人がその室間を移動することとなる。

たとえば、生体的観点。空気・室の清浄性(二酸化炭素一酸化炭素ホルムアルデヒドその他特定の化学物質、空気中の細菌やバクテリア、塵・埃、ダニ、花粉その他様々なアレルギー源、放射性物質など……に過度に曝されない状況)を確保するために、それらの発生源である空間を分離したり、ある室を掃除・換気している間にその他の部屋を利用したりするなどして、人は室の間を移動することになる。また、タバコなど社会的所作を伴う要因によっても、その衛生の観点から喫煙空間を分離することがある。

日本などの文化圏では、上足と下足の分離が図られる。衛生とは生体的な衛生だけでなく、印象に基づく精神的な衛生もあり、その種類は文化的差異を持つ。

 

四、太陽の光を浴びるため。人を太陽の光によって体内時計をリセットし、さらにビタミンDなどを光合成により獲得する。屋外や、太陽の光のある部屋(サンルームなど)、窓際など、空間の移動によって人はまとまった量の太陽光のもとに滞在したくなるタイミングがある。

 

五、快適な温度・湿度の調節のため。空間ごとに微妙に異なる温度・湿度を人間は感じ取り、不快であるならばその室以外の室の温熱環境の記憶をもとに移動を試みる。

 

六、運動のため。動機と程度は様々だが、身体を動かしたいと欲した時、人はそれに適した場所へ移動する。また、歩くこと自体を気分転換に行う場合もある。

 

七、思考に即した身体スケールを持つ空間への移動。光のある巨大な空間は人にインスピレーションを与えるし、天井の低い空間は人と人との親密な関わりの場を支援する。人間の身体と空間との相対的な関係が、人間の"気分"を左右し、それが空間の移動のきっかけになることがある。

 

八、姿勢の欲求(休息の空間)

室はその形状に基づいて、そこに滞在する人の取ることができる姿勢の種類を規定する。

立位・座位・臥位を基本的な分類とする。座位の場合は腰の低さや足の高さ、背もたれの有無とその角度などがあり、その姿勢を受け止める椅子やソファ等からの抗力によって、体にかかる負荷も変わってくる。こういった小さな違いによって、人間の休息感や作業性、視点の向く先が変わる。人間が疲労を感じた時に、休むための姿勢を取ることができない場合、休息のためにその室からの移動を試みることがある。

 

以上、人間の身体の要請によって、人間がある室とそれ以外の室とを移動することについて考えてきた。次に、これらが室同士の関係を結ぶことに着目して、関係の様相を言語化していく。これは、お互いがお互いを求める室同士の相互関係性であり、しばしば対立的欲求に基づく対立的関係の体を取る。単に直接的な概念の対立だけでなく、いくつかの要求からなるトレードオフの対立的関係も考えられる。

たとえば、以下のようにだ。

・水平の圧迫感⇔垂直の圧迫感

・循環的監視構造の部屋

・涼しい場所⇔暖かい場所

・活動の光温度の空間⇔休息の光温度の空間

・午前の空間⇔午後の空間

・食事の姿勢を伴う空間⇔就寝の姿勢を伴う空間空間

・思考を開放する部屋⇔思考を収斂する部屋

・庭に開かれた部屋⇔空に開かれた部屋

・カーペット、畳、炬燵などによる寛ぎ⇔ベッド、リラックスチェア、ソファなどによる寛ぎ

 

こういった関係の対からなる部屋と部屋の構成は人間の身体的要求がそのまま室同士の必然的な関係として成立している。これらは電場と磁場の関係のように、相互にお互いを求め合う連鎖を生み出し、空間の(空間による)絆を作り出す。

 

身体の持つ全体感覚としては、これらの関係の対のうち、共存可能な幾つかの組み合わせを空間化していくことになる。

 

 

7. 場所の力が醸造する全体感覚から類型を導く。

 

本来、場所の力は私たち設計者が「発見」し、そうであると「肯定」することで初めて意識され得るものとなる。場所の力は一つ発見すると、それを軸にして設計が進むときもあり、その場合、一つの見出された場所の力に対する一つの関係(回答、応答)を構築する、という空間設計のプロセスとなるだろう。

稀に、場所の力を複数見出すことによって、空間と場所の力との対応を何個も作り出すことができた傑作もあるだろう(ルイジアナ美術館や、ジェフリー・バワの建築など)。これらはどれも素晴らしい作品といえるが、かと言って一つの強力な場所の力に対して関係を構築している傑作(マラパルテ邸やコルビュジエの母の家など)も劣らず素晴らしい。

特定の空間と、場所の力との間の関係には幾つかのパターンがある。

 

 

一、空間が場所を所有する、占有する

二、空間が場所を借りる

三、場所が空間に投影される

四、場所が空間に注ぎ込まれる

五、空間が場所の一部になる

六、空間が場所をフィルタリングする

七、空間によって場所が補完される

八、空間と場所とが流転する

九、空間が場所にそっと置かれる

十、場所の中に空間がある

 

ここから関係性の類型を導くとすれば、どのようになるだろうか?

加えていうならば、関係の中にある、必然性を基にして空間を成り立たせることで、関係の三体性を設計することができる。上に並べたような場所と空間との関係の中から、室が室を「要請」する動作を抽出することが次の思考ステップになる。