Dossiri - Kamaeru

建築・都市・生活の領域に関する知識の体系化、技術に対する考察、書籍レビュー等

「かち」と「か」を英語で考える

indicator と index はもともとin(中に)-dico(言う):指し示す、という由来がある。

「指示」の受け渡しとは何か。基本的に、「呼ぶ・話す・会う」の社会プロセスを通して行われる命名の連鎖によって、語は意味を獲得する。これが受け渡しである。

この連鎖の果てでは、必ずしも、話し手がその名前のみで名の「指示」する対象を特定している必要はない。なぜならば、話し手は名の意味の使われ方を社会に確認することができ、それによって対象を明瞭化させることができるからだ。

この、意味の受け渡し過程において、遺伝子の継承と同じように意味のエラーが入り込む。名前の伝え手と受け手において同一の対象を「指示」できればいいのだが、その対面関係だけでエラーを取り除くことは難しく、社会の手助けがあって初めて「指示」の受け渡しが生じる。

 

さて、indicator(指標)はvalue(かち)を対象とするvariable(変数)やform(かたち)が話し手によって命名されるという関係がある。ここにおいて、variableないしformは、valueを「指示」する名である。valueの伝達を助けるのが、社会という合意の基盤である。

一方で、value(かち)はcept(か)を「指示」する。ceptはcapere(つかむ)に由来する。話し手はvalueを語るが、受け手はvalueが指示するceptを想像することしかできない。ceptの伝達を、社会が手助けすることは難しい。

言ってしまえば、ceptはvariableやformの対極にある。ceptは、コンテクストの総体であり、もっとも情報量が多いが、その情報の集合のうちどれだけの部分をvalueが「指示」できるかは、受け手の個人に依存する。

con-ceptは受胎されたもの、というアポステオリな認識があるが、実際には「共同で」つかみ取ったものであるというのが本来の考え方だ。「受ける」よりも「つかみ取る」とみることは、能動性を意味する。つまり、cept(か)は、(しばしばある循環過程のもとで)valueに依存しない。それはすなわち、valueがceptを指示している名に過ぎないことと同義である。ceptは、最も深い位置にある。

 

では、Indicatorではなく、どのような「指示」が、valueとceptとの関わりを表すのだろう。

ここで、ceptと「原理principle」と比較してみよう。

principleは言ってしまえば、form・variable "への" 単線的指示過程に重点を置き、ceptはform・variable "からの" 単線的指示過程に重点を置いている。 両者を統合した(ある)循環過程においては、このceptとprincipleのすり合わせが起きる。しかし、前述したようにceptはコンテクストの総体としての本質である一方で、principleはコンテクストの根源としての本質を意味する。principleのモチーフはツリーである。それは、prim-が、系統の存在を前提とした源への遡行にあるからだ。

ceptとvalueの関係は、こういった思考ではなく、コンテクストの総体としての本質の「結晶化」にある。生成的であるが、generativeではない。つまり、世代という順序関係や時間に対する判断をここでは留保している。

このような「指示」関係を適切に表現する言葉は見あたらないが、direction的「指示」であると言える。コンテクストの総体であるceptを、ある種valueが「ある方向に導くかたちで指示している」と考えることもできるためだ。valueが名であり、ceptが対象である指示関係は、もしform・variable "への" 動きであるという立場をとってしまえば、form・variableそのものを参照しない、間接参照(indirection)であるともとれるからだ(この考えは、創造の循環過程においてあまりに一面的ではあることが課題だ)。

 

研究も建築も、循環過程におけるform・variable "への" 動きだけでは成り立たず、form・variable "からの" 動きだけでも成り立たない。これは(「かち」を加えた拡張的な)代謝建築論で主張されている点に対する私なりの解釈だ。しかし、その「指示」に対する視点があいまいであってはいけない。なぜならば、研究はアプローチを明示的に説明する必要があるからだ。建築は、思考の跳躍を、身体や他者や偶然を含めたあらゆるアプローチを利用できるし、それが明示的である必要は必ずしも存在しない。そこには「遊戯」と「妄想」が介在する。しかし、研究は違う。研究は、人を説得する過程そのものが活動であり、approach-orientedである。

 

form・variableとは、在り方そのものである。私がここで一つ指摘できるのは、いくつかの研究手法…indicator-based framworkやprinciple-based frameworkは、「か-かた-かたち-かち-か」の循環過程においてどの「指示」に焦点化したかという点で分類可能である、ということだ。つまり、既存のアプローチはその循環過程のいずれかに位置づけられる。しかし、ある位置にあるということは、反対側の位置があるという事をも意味する。例えばいままでindicator-based framworkが多く使用されてきた都市形態論において、「か-かた」 の「指示」について焦点を当てたフレームワークをメインアイデアに据えることは難しい。その一因である可能性として、「か-かた」の「指示」はフィジビリティや政治に依存する点が推測される。加えて、これについては研究者のセンスとして片づけられることが多いために、知見としての市民権が与えられていないのかもしれない。

 

また、私は少なくとも、formとvariableの相互翻訳そのものに意義はないと思っている。したがって、GIS研究などは、相互翻訳をコンテンツと認めてしまう研究は研究として何をしたかったのか問われることになるだろう。その場合、相互翻訳というトピックの循環過程を見出し、その中で「cept(か)」を見つけるところまでいかないと意味がない。以上が自身の所見である。院生として私が行う際にも、こういったことには気を付けないといけない、と感じている。