Dossiri - Kamaeru

建築・都市・生活の領域に関する知識の体系化、技術に対する考察、書籍レビュー等

〈ヤン・ゲールを読む〉 ―デザインの次元、都市の空間の素描

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《地上高1.4m,水平方向に,時速5㎞で体験されるための都市をデザインせよ》

Jahn Gehl "Cities for People" 

 


 

 

ジェイコブズ(Jane Jacobs)が建築分野において人気があるのは、人間の「生」に根差した空間を語り、空間を創出する視野が、(文化・歴史のロマンチックな懐古趣味を喚起しつつ、)新しい都市政策のなかで説得力を持ったという点が一因としてあるのではないだろうか。

 

過去と未来の接続-その困難さは、経済と社会のダイナミクスから生まれる慢性的なストレスとして、建築と都市の論考を緩やかに押しつぶそうとしている。

もはや、現在と過去の二項対立的な闘争は存在しない。アーバン・デザインの命題は、多様化する市民と組織のニーズを統合し、導いていく点に重点が置かれるようになっている。あらゆる立場が相対化するなかで、デザイナーは指揮者としての役割を求められるようになっている。

 

1960年代の都市の動きは、C.アレグザンダー(1965)やJ.ジェイコブズ(1961)らによる「都市計画の解体」的運動により特徴づけられるだろう。この時代から、既に50年が経過している。

彼らの考えのドラスティックさには通時代的な価値が認められうる一方で、しかしながら、その「賞味期限」が迫っていることに気づかされる。つまり、これらの「最後の都市論」を作ろうとした世代の活動は、1972年のストックホルム宣言よりも前の活動なのだ。

指摘できるのは、ポスト・ジェイコブズの議論だけではない。グローバリゼーション、ジェネリックシティ、金融と投資のオーバードライブ、全地球的な移民の流動、新たなナショナリズムの台頭。あらゆる断絶と接続が、同じ地球上の各所で同時多発的に発生している。

 

人間のための都市を作ることは、今やかつてないほどに難しく、先進国と後進国では相異なる問題にさらされている。

歴史はあらたな市場と「観光へのまなざし」に曝される中で、そのオーセンティシティを語ること自体の意義が問われている。都市領域において、地域の風土は、身体との交流を失って久しい。

公園やパブリックスペースは、警備をせざるを得ないという合意のもとに、その警備をコミュニティの外部に委託するようになっている。これはすなわち、地域にとって「守りやすい街」の追求が空間論から組織論に移行するという事だ。つまり、警備費用の発生のために、公共空間には一元的なモラリティと限定的な機能性が持ち込まれるようになる。

こういった、目に見えない経済的排除の構造が、都市の公共空間を支配している。以上の事は、いわゆる「元気な」まちづくりに成功している地域で生じている現象であり、それ以外の「元気に」なれなかった地域は、今でもなお、かつてパブリックスペースだった場所を固くフェンスで閉ざしている。

再度言おう。人間のための都市を作ることは、今や、かつてないほどに難しい。

 

こうした中で、「人間の街」と題されるJahn Gehlの邦訳書が、2014年に出版された。彼は、メルボルンコペンハーゲンのような都市の政策に関わり、新しい指標に基づく継続的な調査の重要性を主張してきた。

彼は、現代における、アーバン・デザインの第一人者であるといえよう。

こういった経緯で私は、この本を読むことになった。目的は単純で、都市と空間を結びつけて考えることに、もう一度注目するためである。

 

 

 

 

論敵は「自動車」である。これは現代の多くの都市論とヤン・ゲールの論において、共通している。この点においては、間違いなくゲールはジェイコブズの正当な継承者だろう。

 

もちろん、自動車を都市から「締め出す」立場に対しては、いくつかの反論がある。

まず、それが現実的でないこと。モータリゼーションを巻き戻ししようという考えが時代錯誤であるという立場。

次に、流通を都市基盤として評価するマーケット主義。都市のオンデマンドなサービス産業は自動車の技術に支えられ、消費者の消費もまた自動車による自由な移動に支えられているという立場。

第三に、技術主義。自動車の排出するCO2の問題はエコ効率の向上、そして代替する燃料の普及によって解決すべきだという考え。

第四に、「自動車の中」こそが新たな都市空間要素であるべきとする考え。自動車が、文化の様相を構築してきたという支持。

第五に、自動車は、街路を共用するその外部の人間(=歩行者)を危険に曝すが、一方で自動車の「中」に安全をもたらし、安全な移動手段を提供するという考え。

第六に、自動車が、新たな「スマートさ」を持つことにより、現在の課題を解決する形で都市空間を再統合するという考え。

 

ゲールが本書で、こういった考えに一つ一つ反論しているか、といえば、けしてそんなことはない。彼は、この不毛な論争に参加し、それに終始する気はない。

彼の目的は、自動車のない空間に「都市活動」を呼び起こし、定着させるための都市空間の「質」の追求にある。

 

遊歩、ふれあい、偶発性

 

歩きやすい都市空間を支持し得る、最も「政治的な」理由は、その健康効果にあるだろう。やはり、歩行する都市市民が多い都市において健康寿命は拡大し、それらが福祉・医療の税支出を抑える可能性が示唆されている。

 

だが、歩きやすい都市空間では、建築学的な、〈人 ー 人〉と〈人 ー 空間〉のインタラクションが発生する点にこそ、注目がなされるべきであろう。

ゲールは、遊歩(ぶらぶらと歩く)、ふれあい(偶発的な出会いに始まる共通行動)、そしてその「偶発性」にこそ価値があると考える。そのように都市を味わうことを、ひとびとの「余暇」として復興させようとしている。

この古くて新しいアーバン・ルネサンスの現実性と実効性については議論の余地があるが、少なくとも、その体験の魅力については、語るまでもない。建築家らは、数多くの建築論・都市論を通して、繰り返しその都市の魅力を素描してきたのだ。

 

ウォーカビリティは、空間の質に対する投資により向上できる。ストリートファニチャー、景観の美しさ、人々を収容する街路空間のスケール・デザイン、Proxemicsに基づいた空間のパースペクティブの調和。…これらは漏れなく、日本の街路空間に欠如しているものである。

 

日本の近年の都市施設は確かに、(ドバイ的な意味での)象徴的な形態への強迫観念から解放されており、 ある意味でビジネステイストな建物が多い。遠景からの美しさに建築家が動員されることは減っており、かわりにヒューマンスケールのデザインに建築家が動員されている。

都市空間への投資は、街路ではなく駅前、すなわち「線から点へ」向かっている。線を作ろうとする試みは、やはり難しいようだ。

例えば地方都市では、「歩行空間の再生」のためのストリートファニチャーは置物と化しており、なぜか「立ち止まる気にはなれない」空間が生産されている。それが、都市計画の敗北の結果であることには、市民は気づいていない。退屈なまちの姿の原因を「地方であること」だと考えている。そうした無力感の果てに、まちづくり活動に屈辱的な負の烙印が押されるのならば、それはあまりに悲しいことだ。

観光者からみても、街路に対する印象は同様である。エデンサーが言うように、組織化された旅行(パッケージツアー)と、非組織化された旅行(バックパック)があるが、前者において観光の様態は「飛び地のツーリスト空間」を迅速に移動するのみであり、地方都市において駅前は乗換えのための空間に過ぎない。

国内の都市では、本書で掲げられるような[ポーザビリティ=立ち止まりやすさ]や[滞留性]があまりにも不足した街路の空間に、ホームレスの利用を拒絶する「寝ころびづらい椅子」が設けられ、これが街路空間の整備だと宣われている現状がある。

そういった都市空間では、微気候の気持ちよさは感じられず、並木下の空間や建物の小さなくぼみがないため、人々の拠り所も逃げ場もない。真夏の熱い中、高齢者や子供夫婦が、こうしたコンクリートに覆われた裸の街路を歩く気には到底なれない。

彼らの歩行機会へのフラストレーションは、別の場所 - 例えば、郊外のショッピング・モールやカフェの商業空間 - に回収される。

そうして、都市空間から人々の姿が消えていく。

 

つまり、日本の街路空間において欠如しているアーバンデザインの方法論の「いろは」を、ヤン・ゲールはまさに教えてくれているのだ。

私が思うに、日本の国内事情に照らし合わせて考えれば、単に公共交通政策をもって歩行者の暮らしを快適にすることはできない。アーバンデザイナーにとって、論敵は自動車ではなく、国土の全域で敷設されてきた、のっぺりとした道路空間そのものではないか。

 

アクティビティ

 

遊歩性とは別に、人々のふれあいにはアクティビティが必要だ。

アクティビティ創出には、塚本由晴の都市のビヘイビアを考察する〈ふるまい学〉の視点も重要であるし、それとは別に社会的・経済的に動機づけられた「活動」の目的的視点も重要である。

都市で発生するアクティビティを確保するために、コンテンツの確保のみに走ってしまってはいけない。その場合、試みは、すぐさま商業主義に回収されてしまうか、あるいは持続可能性の乏しい「まちづくりイベント」の単発性により消耗してしまう。持続的なシステムと、都市空間、文化の領域から複合的にアプローチしなければ、アクティビティを捉えることは難しいだろう。

 

都市構造は、人々を拡散させないための限定性と、ひとびとに快適さをもたらす開放性の両面を確保し、かつ追求しなければいけない。これを、コンパクションのジレンマと私は呼んでいる。

地理面積あたりの人口を高密度にするマンション開発は、「同じ目線の高さにあるひとびと」による薄いアクティビティの積層にすぎず、ゲールはこれを否定している。

都市の利用率を、どのように高めるか。都市に存在する膨大な空間の供給プールを、どのように運用するか。そして、そのために、プロパティの質をどう高め、媒介する都市空間をどうデザインするか。それらは、コンパクションのジレンマの解決に寄与する一連の命題であるはずだ。

一方で、それに対するアイデアケーススタディは、依然、不足している。

 

アクティビティを醸成するためには、都市に求心性が必要であり、それは都市の創出する「機会」の価値そのものに左右される。

私たちが持つスマートフォン・携帯端末の上では入手できない「機会」を、果たして都市が提供できるのだろうか?これは、現代都市の困難な課題の一つだ。

 

都市の中の柔らかい【エッジ】

 

アクティビティに関して言えば、「都市は劣化する」。美しい経年変化を持つ一方で、どうしても言い繕えない劣化もある。

コミュニティや人間関係に移ろいがあるように、都市における住民、市民の公的活動と私的活動の変化、住宅の中に格納される世帯構造の変化、住民の高齢化、施設の老化がある。しかし、その議論には深く立ち入らない。ゲールは、普遍的に都市の死と生が最も表現されている、街路の【エッジ】について考察する。

エッジとは、ここではK.リンチ的意味の都市のエッジのことではなく、街路と私的空間とのエッジのことである。【エッジ】とは、住宅の接地部分、街路と最も近い部分であり、植木鉢・ショーウィンドウ・カフェのオープンテラス・その他様々な「半私的活動」が表出するインターフェースの部分のことである。

 

間口・戸口・凹凸性・透明性・植物・その他様々な面で、【エッジ】をどのように柔らかくすれば、都市のアクティビティに寄与してくれるのかを、彼は考察する。

この視点が指摘したいのは、Jacobs的に「ハードな環境によってソフトな都市活動が提供される」ことではない。

彼は、「人は人のいるところにやってくる」と述べる。人の滞留をまず最初に生み出すのは、人である。半公共半私的空間であるエッジでの滞留をまず喚起するのは、私的空間側の、私的な活動にいそしむひとびとである。

つまり、ここにおいてもマンションのビルディングタイプは否定されている。1階部分に、如何に私的な活動を創出するか、という建築側の責任が、ここに発生する。そのためにはまず、1階部分を(その建物の)居住者に「開放」しないといけないのだ。あるいは、チェーン店のような非住民的な商業活動を1階にテナント貸しするのも完全な正解ではない。

ゲールの指摘を踏まえれば、社会的混交は、この【エッジ】にこそ表出されるのだと考えられる。

 

都市の柔らかい【エッジ】は、特にアーバンビレッジをコンセプトとする職住近接の都市モデルを追求する都市において、デザインの肝となる考え方ではないだろうか。

同時に、その持続性の観点から見る困難さについては、昨今の国内の商店街地域を見れば明らかである。確かに「人は人のいるところにやってくる」のだが、新規住民にとっての柔らかいエッジを確保することができなければ、彼らの土地への愛着は育まれない。

近年では、「表出」自体に着目する論考も生まれている。引き続きこの点においては、商業的課題(サービス、バリアフリー、イメージ、経営)からも商業的課題以外(住民の所得、社会層、生活様式など)からも、検討がなされるべきである。

 

国内都市において、「まちなみ」が完全に失われ、都市が断片化してしまえば、同時に都市の街路性は失われる。

職人の町や漁民の町では、人材の分散が生じるとともに産業が衰退し、かつての「まちなみ」と呼応する形で成立していた「街路への営みの表出」はもはや消失しつつある。西陣などにみられるこの現象は、まちのイメージの地理空間的断片化である。こういった現象も同様に、都市のアクティビティを減少させているのかもしれない。

 

街に新たなアクティビティを - ランニングブーム、自転車、都市の新たな速度

 

都市において、遊歩性のある都市構造(すなわち、回遊都市)が困難になる中で、都市のアクティビティにおける有力なキーワードが、〈移動〉となっていることは否めないだろう。

健康ブームと結びつく形で、自転車を通勤手段として選択するビジネスマン層や、ランニング層が拡大している。都市が、多くの速度に開かれることが、新しいニーズとなっている。

 

こうした動きが、スマートモビリティや自動車より小さな移動手段による移動が拡大することと呼応し、さらにはアクティブシニアにとっての歩行空間の議論がそこに加わることで、街路の「自動車一強時代」を新しい情勢に変えていく可能性がある。

自動車によって駆逐されていた街路の安全性と活動性が、再び戻ってくるかもしれないという小さな希望を、ゲールは示唆している。その可能性は、道路空間の今後の「リ・デザイン」的な再整備が、成功するかどうかに左右されるだろう。

 

21世紀の新しい広場

 

広場空間の良き実例は、まだ国内で言えるものは少ない。富山市のグランドプラザはアクティビティの持続的な創出に成功している点でよい事例とはいえるが、その継続的評価を行うには多少の判断の保留が必要であると考えている。

本書では、特にコペンハーゲンメルボルンを紹介しているが、私はこの本の中でもポートランドのPioneer Courthouse SquareやノルウェーオスロのThe Norwegian National Opera & Balletが近年の事例として紹介されていることに驚いた。かなり現代の良事例であることに変わりはないが、都市に対する大規模な投資の事例をここで挙げることには一般性がないように感じられたためだ。

ここでは、広場空間のスケールの適切さ、アクティビティの存在、開発としての成功性、生み出された建築・都市の美しさが評価されていると感じる。

 

www.portlandoregon.gov

www.visitoslo.com

 

 

都市において必要なもの : 思慮・心遣い・共感

 

メガシティはじめ、第3世界の急激に成長する都市にも、ゲールは触れている。その中で、彼は最貧の人々による自己表現の手段としての街路の役割に注目している。この視点は本書でも有数の鋭さを持つ視点だ。

自己表現・遊び・運動は、同時に社会的活動・「生」の本質・最も素朴な公共(政治の場)への参加、である。しかし、公園が駐車場に改造され、路上空間における保健性が失われ、エンジンを吹き鳴らす車や軽自動車による交通の混雑が路上の安全を脅かしている。それはすなわち、屋外のアクティビティの消失、あるいは屋内への撤退を表す。

最貧の人々は、都市が前進するほどに、撤退を強いられているのだ。

対策をすべき都市計画者は、緊急性・財源の少なさ・取り組みにかかる時間の長さ・問題の多方面さにおいて、困難を強いられている。

 

彼は、ケープタウンの「尊厳の場」プロジェクトを紹介している。

プロジェクトの重要な点は、人々の隔離をなくし、人の集まれる公共の都市空間を生み出し、彼らの日常生活を支え、勇気づけることである。そこで計測されるのは都市の成長や整備の実施、商業や様々な規模ではなく、人々の生活状態であり、幸福度である。

地域にそのまま生きてきた人々が、参加し、自己表現を行える都市空間を再生することの重要性は、まさに第3世界から先進国に発するメッセージだ。補注すれば、このことは第3世界において重要な命題なのではなく、世界的な新しい潮流となっているかもしれない。数々の制約の中での都市に対するアプローチの可能性を詳細に記述した、『タクティカル・アーバニズム』(Mike Lydon, Anthony Garcia, 2015)については、次に是非読み込みたいと考えている。

 

建築家ラルフ・アースキンは2000年に取材を受けたとき、よい建築家になるためには何が必要かを質問されて次のように答えた。

「よい建築家になるには、人を愛することが必要です。なぜなら建築は応用芸術であり、人びとが生活するための枠組みをつくるものだからです」。

(本著,p238)

 

最後に:アーバンデザインの射程、都市空間の素描

 

都市空間において、もっとも重要なのは人間であり、人間の認知感覚、人間にとってのスケール、人間の身体活動、人間の自己表現だった。

サステナビリティパラダイム以降、都市空間の主題は再度、脱人間中心主義的になる危険をはらんでいる。それは、これから予測され得る「大きな計画」主義のリバイバルである。

これは、気候変動、モビリティの極大化、人工知能のシンギュラリティ、金融破綻などから生まれる大規模なカタストロフィが引き金となるだろう。そのとき、大規模な人間の居住空間・生活にたいする統制、あるいは誘導が入るように、私たちは今後の計画を見直さざるを得ない。

 

アーバンデザインの可能性は、まさにその中で何度も参照されるべき人間主義にある。

 

「人間のための都市」をつくる大きな戦略は、今後あまり期待できないのではないか、と不安に思う一方で、その小さな試みは普遍的に継続するように感じられる。

断片化した都市戦略が、都市を少しずつ変えてゆく。人間のための都市は、断片をつなぎ合わせ、そのつながりを邪魔しないという新しい「点から線へ」の在り方を、街路という線レベルの戦略と組み合わせて構築する。

その時、「デザインはいずれの次元で行うべきか」と問うことは、陳腐化する。なぜならば、人々こそが、最も基本的な要素となるが、同時に人々なるものはすべての次元にまたがっているからだ。

都市空間においては、その複層性のうち、アクティビティを描き出すことが特に重要になるだろう。

 

2019/08/08

書評

Jahn Gehl "Cities for People"

ヤン・ゲール『人間の街 公共空間のデザイン』(北原 理雄 訳)

 

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