海外旅行初心者のライフハック、気をつけることをまとめてみた(シンガポール編)
■今回の旅行の概要
海外旅行期間:1週間
旅行準備期間:2ヶ月
旅行先:シンガポール
→二人旅行に行ってきました。今回の旅行は初めて自分でスケジュール決めての海外旅行でしたので、経験としても学ぶことが多く、また旅行のメイトからも色々教えてもらうことができました。そこで今回のライフハック内容を、次回以降に生かしていくために下記に纏めます。
■持っていってよかった物
・折りたたみ式ハンガー
→宿泊先に備えてあるハンガーが微妙に足りなかったので、それを補完するために数個持っていった折りたたみ式ハンガーが助かりました。
・泡立つボディタオル
→現地で捨てる想定で持っていきました。満足度は高かったです。今回は最初から、使うつもりで持っていきましたが、アメニティでホテルに着いていると書いてあっても実際なかったりするのでどちらにせよ(嵩張らないですし)持っていき得です。
・ミニ石鹸
→旅行中、一回くらいは服を流し台で洗いたいタイミングがあるので、石鹸置きを含めて少し持っていったのが助かりました。
・充電コードの差し込み口付きコンセント変換器
→便利でした。ちなみにコンセントの変換器は故障したら現地で詰むので2つあると安心感あります。
・ビニール袋30枚セット
→ゴミをまとめたり服をまとめたり色々使うので、二人分でこれくらい用意しておいても使い切りました。
→それぞれ別のシーンで助かりました。暑い地域でしたので、ハンカチも便利でした。ティッシュは、多め、しかも「かなり」多めに持っていった方が良かったと反省。
・折りたたみ傘
→雨傘としてだけでなく、日傘としても役に立ちました。
・モバイルバッテリー
→念のため2個持っていきましたが、毎晩ホテルで充電できるので1個しか使いませんでした。現地での携帯の充電の減り具合が分からなかったので2個もっていきました。
→今回は一人じゃなかったので大丈夫でしたが、もし旅先で携帯のインターネット共有やBluetoothなどを多用する想定の場合は、1個では足りないかと思います。持っていけるなら複数個持って行った方がいいです。
→必須ですが、現地空港で受け取りができるよう予約しておくと安いのが手に入ります。KKdayを今回は利用しました。
→現地でその場で買えるSIMは、1ヶ月とか長い期間で売ってるので、緊急事態以外は買うのが微妙ですし、予約なり事前購入なり前準備をしていくのが正解だと思います。
→スマホの契約内容を事前に確認しておかないと、現地でSIMを差し込んでから通信ができなくて焦ることになります。それとも知らずに行った今回の旅行はSIMロックのかかったスマホは使えず、代替措置として予備のスマホを使わざるを得なくなりました。次回の旅行には、SIMロックを解除してから行こうと思います。
・予備のスマホ
→先程述べたトラブルへの対応に役に立ちましたが、その他のタイミングでも役に立ちました(Google Mapが片方のスマホでバグってる時にも役に立ちますし、携帯で打ち込み作業が発生してしまった時(チケット購入やウェブ申込など)に共有状態のスマホをそれぞれ別作業しながら使えるのが役に立ちました)
・ムヒ
→結局刺されたので、持ち歩き用のムヒを買っておいたのが役に立ちました。
・日焼け止め、虫避け
→特に虫除けは、出先で付け直すことかあるので携帯用のサイズのものが便利です。
・スリッパ
→キャリーケースが小さい人は嵩張らない折りたたみスリッパ、キャリーケースに余裕がある人で水回りで濡れるのが嫌な人は樹脂のスリッパが良いかと思います。
■持って行った方が良かったと思うもの
・輪ゴム
・タッパー
・割り箸
・箱ティッシュ(1個だけのバラ売りしてる場所が現地に殆ど無かった為)
・携帯用アルコール
■気をつけたほうがいいこと
・パスポートの有効期限
→2つの落とし穴があります。
1つ目は、旅行先の国が、「有効期限が残り半年以下の場合はそのパスポートは使えない」など、実際の表記より有効期限が短い可能性があることです。パスポートに記載してある有効期限だけを見て安心していると、計画を詰める段階で上記事項が発覚して無駄に焦ります。
2つ目は、パスポート更新をするために戸籍のある場所に行かなければならず、コンビニのオンライン戸籍謄本サービスを行なっている自治体と行っていない自治体があることです。(つまり、急いでパスポートを更新しようとしても、自治体や居住地と原籍によっては時間がかかります。)
・出国用PCR検査と入国用検査について
→日本への入国は2022年8月現在かなり緩くなっていますが、現地への入国と、現地からの出国については、十分調査をしておかなければなりません。今回、旅行が楽しすぎて現地で行うPCR検査の予約を忘れそうになってしまいました。次からはスケジュールにリマインドしておくと良いなと思いました。
→飛行機のフライト時間は数時間早くなる・遅くなる・キャンセルされることが予想されますので、そのスケジュールのズレによってPCR検査の結果も失効する場合があります。検査時間は、数時間のフライト時間の変動に対応できる時間に設定して予約を取り、検査を受けるのが良いと思いました。
・往復チケットと片道チケット
→旅行の計画時に、チケットの中身について把握しておくとお得に旅行できるなと思いました。今回は片道しか使わないものを、実際往復チケットでしか販売していない為に何千円か多めに支払うことになったことがあったので、そういうこともあるという準備をしておいた方がいいかと思いました。
・アメニティについて
→実際にホテル情報に記載されているアメニティが無かったりします。際どいところでは、ドライヤー、湯沸かし器、コインランドリー、アイロンあたりです。今回の旅行では電子レンジが部屋にあって非常に助かりましたが、当然普通のホテルには無いものなので次回以降の旅行はどうするか考える必要があります。
・クレジットとキャッシュ、複数のオンライン決済手段
→全ての選択肢があった方がいいなと思いました。タクシーの時は、どれが安いかを確認したらキャッシュが安いとのことでしたのでキャッシュにしましたし、逆にバスや地下鉄はICカードを取ってそれを使った方がはるかにスムーズかつ安くなりました。
→お店によっては、オンライン決済やバーコード読み込みによる注文が必要なこともありますし、そういったお店が非常に多かったので、クレジットに紐づいたオンライン決済などがあると便利でした。
・飛行機の選択
→選定時には単に飛行機の値段で比較するのではなく、飛行機の値段+発着空港からホテルまでの移動の値段 の合計金額を考慮して飛行機(とホテル)を選定しなければいけません。空港があまりに市街地から遠隔地であるために安い飛行機に乗ったにも関わらず高い飛行機よりも高額になることがザラにあります。
「ホテルは替えが聞くから後から決めれば良い」ではなく、あくまでどのあたりに旅行でいくのか想定し、実際にキャリーケースを持って移動する訳ですから地下鉄やバスではなくタクシーの使用を前提として考えた時のコスト比較が重要だと学びました。
→フライトのキャンセルなど諸々の問題に対応するために、次回以降はフライト日を平日にした方がいいと思いました。平日ならば皆が働いているので、各方面への連絡が取りやすい為です。
・書類の前準備
→持っていく書類は全てスキャンしておいて携帯にオフラインでアクセスできるようにデータを入れておくことや、パスポートに保険請求書をセットで入れておくこと、印刷は2部しておくことを今回は徹底しました。結果ほとんどの場面でトラブルなく必要な時に必要な書類を出せたので、良かったです。
→ただし今回、文化施設(劇場)でワクチンパスポートが必要なのに、それをすっかり忘れていて軽装で向かった結果、準備不足だったため直前で焦ることがありました(結果携帯に入れていたので問題は無かったですが)。こういうつまらないことでドタバタしてしまうのは勿体ないと感じました。
・SIMカードについて
→SIMの電話番号は、旅行終了の次の日くらいまでは有効なものを買っておいた方がいざという時に便利だと思いました。緊急時に焦る要素は一つでも減らした方がいいですので。実際、フライトに乗れなくなった際には、この点においても買い直しする必要などがあり困りました。
・日本米のパック
→部屋に電子レンジがあったので、朝食で日本米のパックを現地で調達しました。普通のスーパーには売っていなかったので私は諦めムードでしたが、一緒に旅行に行ったメイトが韓国食料品の店で売ってると予想を立てて調べてくれた結果、そのとおり売っていたので調達することができました。他にも、DAISO Japanにも売っていました。1日〜2日に1食は食べ慣れたものを食べれるという点でとても良かったですし、旅行期間中ずっと食欲を維持できましたので、現地の食事も美味しく感じました。
・フライト時間の確認
→フライト時間と飛び立つターミナルの場所は、当日までの期間で気が付かないうちに変更されていることが頻繁にあります。数日前、前日、空港までの移動の直前、搭乗前など細かくオンラインで情報をチェックして、変更に気付くようにするのがとても重要だと思いました。
■まとめ
特に私が重要だと思ったのは、以下の点です。
・旅行は余裕を持って準備し、余裕を持って調査、情報収集すること
・渡航関係と飛行機関係とホテルは旅行直前まで何度も確認して、確実に準備すること
・言語はとても大事。英語コミュニケーションが十分できるようになること
皆さんも、良い海外旅行を!
〈反復〉と建築(1)... 2014-2020, 大学時代の設計論的思考より
〈反復〉は、はるか昔から強固な精神の表れとして、鍛錬として、(あるいは狂気や執着として)、ある種の能動的な象徴として設計に使用されてきた。…その点において〈反復〉の概念は、磯崎にとってのタナトスやコールハースにとってのロボトミー同様に、設計に先行するコンセプト、基底思想になりえる。
建築は、その要素の配列の問題として反復が語られるとき、反復の美学に対置される形で非反復の妙が語られる。
反復は、本来的な意味での「秩序」の手法である。建築デザインにおいては自然科学のように「与えられた秩序」に従うのではなく、むしろ仮想的な「秩序」を設定し、それを遵守することによって得られる建築物の効能をもって「秩序」を評価する、という創造的プロセスが取られる。建築デザインの「秩序」は2つの側面を持つ。一つは、道具の開発やモジュールの開発、手順の開発など、建築の構法に関わる「秩序」。もう一つが、空間の広がり・明るさ・ゲシュタルト・アフォーダンスなどを効果的に発現させるような、構成に関わる「秩序」である。
反復は、モジュールに関係する。建築のスケール問題を考えれば、建築が規模拡大すればするほどに、その実現性を高めるために、あるルールを反復するという「秩序」が設定される。ゆえに、反復は、コリドーやドミノプランのように、建築空間を展開・拡大するための基本思想でもある。
ここで、技術としての反復に着目しよう。反復のうちの一回に着目すると、その「一回」は機械の発明とともに省力化されていった。技術の発達は歴史上、省力化(労働の収縮)という動機づけを主としている。近代までは少なくともそうであり、また機械がそうであった。近代の後半では、計算機の登場によってそれは知的領域にも影響を与えた。そして現在、反復学習によって獲得される人口の知性、ヒューリスティックな判断を行う機械や、パターンの再生・創造の技術に関心が高まっている。
反復は、原理的には、人間の最も基本的な外部への干渉戦略のひとつである。
行動としての反復・思想としての反復・知覚(されるものの美学)としての反復、そのそれぞれが、人間の基本戦略のひとつであった。
建築の(形態が孕む)反復性は、たとえSociety5.0が最も理想の形で達成され、あらゆる建築部材がオーダーメイドとなるという夢想がまさに現実のものとなったとしても、建築物の持つ全体秩序のうち、そのイデアの析出のためにこそ着目され続けるだろう。
ここで、3つのの提案をしていきたい。
一つ目は、「彫塑性のある形態を作るBIM」の提案である。
現代彫刻が持つ美は、「〈あるがままに不可思議〉という様相」の保持として説明できるだろう。すなわちそこには情報が存在する。言い換えれば、そこには経歴が存在する。経歴とは、私たちがそれの正統性として認識する構造、或いはそれ自身が持つ潜在的な原型において、物質が獲得する即物的な意味のことである。
その意味を読解可能な(或いは表現可能な)ものとするための概念として、彫刻には、〈反復≒マテリアリティ〉と〈非反復≒アーティキュレーション〉が共存する。この点について、少し述べていきたい。
簡単に言えば、マテリアリティは対象がその内在するパターンにおいて単一に認識されるという性格のことであり、アーティキュレーションとは対象がその内在する構築の様相において単一に認識されるという性格のことだ。
本来、ものは「それ自体としてしか存在できない」ため、「ものの反復」は原理的には不可能である。特に、自然物は時空間的に他の何かに取って代わることも取って代わられることもできず、代理性は認められない。例えば、フッサールは反復されるのは実在的対象ではなくイデア的対象(幾何学や数)と考えた。
ゆえに、ものがマテリアルとして認知されるためには必ずそれ自体が脱個体化するために反復という操作を伴う必要がある。増殖しなければ、物体はマテリアルとして認知されない。ものが個体としてではなく集合体として顕現するときに、それはマテリアルとなる。
そのイメージしやすいモチーフは、受精卵だ。受精卵は、細胞分裂を行うことで「単一」であることを放棄する。しかし、その細胞分裂を行うことによって初めて「身体」が組織化されていく。この中間の状況、すなわち部位ごとの異化が発生する直前の「万能でポテンシャルに溢れた未分化状態」の緊張感がマテリアルをマテリアルたらしめる。(奇妙なことに、「単一性を放棄することで単体性を獲得できる」。)
彫塑されるものには、かならず原木に相当するマテリアルが存在する。そしてそれは、単一ではないことによって彫塑が実現可能となっている。
そして、ものは「それ自体として存在する」ことを最大限認知できる状態で他者と関係を結ぶときに、「差異」が出現する。
彫塑性のある形態を作るBIMとは、
建築物を形態として構築する際に発生する問題である部分と全体の関係の一つの調停手段として、原木的〈オブジェクト〉のマテリアル的〈操作〉に着目することである。
「彫塑としてのBIM」はつまるところ微分作用(極限的に小さな区間での差異)をどのように扱うか、一つのマテリアルの積分作用(極限的に小さな区間の性質の結合的統合)をどのようなものとして取り扱うかの問題に終始すると考えられる。このようにして、彫塑されるものは設計対象として〈言語化=メタモデリング〉することが可能となる。
二つ目は、「構成から生成へと向かう空間設計」の提案である。
これは、破壊を伴う反復を必要とする。構成主義は構成したものを破壊しない。この非破壊性こそが機械時代の象徴であり、造形の根拠でもあった。
この時、設計において、生き延び得なかったものは語られることはない。
しかし今や、建築においても淘汰のプロセスを語ることが必要となってきている。それはすなわち、時間性を考慮するということだ。
「この世の中は破片でつくられる」という構築主義的な思考において、「破片」はそれ以上に破壊できないという無意識の諦念を含んだ対象である。さて、この構成において、破片は時間性を持っているのだろうか?
反復には、同じ数の破壊が必要だ。それが、ヒューリスティクスのルールである。
「生産と破壊」のアイデアは、生物の自己破壊免疫機能に着想を得ている。個々の断片たちの中に、封建的に・特権的に生存が保証されている個体があるわけではない。全ては等しく重要であり、同時に等しく価値がないという世界だ。
ただし、人間の住まいの歴史における淘汰の足跡を追ってみると、実建築の破壊を代行するのは人間ではなく自然災害であった。そこで行われた自己調整と適合・順応は、建築としての使命(内部の人間を守ること)を果たすための結果である。
今や現代においては、経済的自由競争が社会にとって不適切なものを破壊している。
(もっとも、そのようにして維持されうる全体系・・・いまのシステムが、深刻な経済的破局を「基本仕様として」内包している以上、その破壊を「自然淘汰」の神話になぞらえて説明するのは不適切かもしれない。私たちが依存しているこのシステムに、自己修復作用があると保証されてはいないのだから。 )
逆に考えれば、破壊の反復には生産の反復が必要である。その均衡によって、回数性よりもむしろその双方向的な現象であるという性質によって、空間の中に部分と全体の関係が維持される。
三つ目は、「反復とは、集合的無意識と分かちがたくむすびついている」という都市への考察だ。
ある主体にとっては一回しか体験されない一連の行動があったとして、それは、別の主体にとっては反復して生起している事柄であるということがある。その例の一つが、都市と人間との関係だ。
都市の中のある現象が(都市によって)反復されるということは、都市における人間の集合体の個々において一回の現象であることとは区別される。
すなわち、都市においては、ある反復を考えることができる。先に述べた〈反復=マテリアリティ〉の観点で言えば、個々の現象が脱個体化していくという点で反復的な事象が、都市においては都市の記憶すなわち集合的無意識の形成に寄与するということだ。
これを説明するためには、ミクロとマクロの関係をきちんと理解し、そこにある確率的解釈を考慮しつつ、「軌跡の重なり」とも呼べるある特徴線を記述しないといけない。
もし、都市における諸実体、諸景、諸現象について語れる主体がいるのならば、それは、都市における現象の同一性と物質要素の個体性が瞬間的には持続していることを認め・それを観照する精神の働きによって「語る」ことが可能になる。その主体は、集合的無意識に導かれて都市で出現する〈シークエンス〉に基づき、新たな展開の出現を期待する。都市において、「反復されることによって」「劇場的に」都市は表象する。
都市は快楽の場である。それは、都市における〈シークエンス〉が開放と閉鎖のコントラスト、あるいは明と暗のコントラスト、あるいは緊張と弛緩のコントラストが「ひとまとまりのひとつとなる」ことで、受動的に、それらが総合されるからだ。その弛緩は緊張により快感となり、その緊張は弛緩の中で快感となる。都市における人間の心的生活が、〈シークエンス〉によって支配されているのは、そういうわけだ。
もう一つの例が、多木浩二が「生きられた家」と呼んでいた〔体験された現在としての家〕と、人間との関係である。習慣、そしてハビトゥスの問題としての反復だ。
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以上述べたことは直接的には思考の断片の集合に過ぎない。したがって次の段階において、これらの反復は、ハイデガー、ニーチェ、ライプニッツ、ベルクソン、フッサール、ドゥルーズ、デリダによる反復の概念に関わる省察を受けて反省する必要があるだろう。
→反復性設計論(2)に続く
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"持続可能な建築設計"の建築設計論 (1)
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1. 設計者の基本的ポリシー
◆ プロジェクトには、様々に特有の事情がある。「顧客の要求を満足する」という観点からみたとしても、顧客が様々な立場から要求を行う為、設計者はその要求の背景にある欲求や問題意識、目的を理解することが最低限必要になるのだが、顧客の性格は以下のように大別できる。
・顧客が建物の使用者である場合 (ここでいう使用者とは、滞在する張本人である)
・顧客=建物の管理者であり、主な使用者が管理者の制御下にある場合
・顧客=建物の管理者であり、主な使用者は管理者と平等な契約関係にある場合
・顧客=建物の管理者であり、主な使用者が不特定多数の人間にある場合
・顧客=建物の開発者であり、建設後は、その建物を別の第三者的な(=ドメスティックではない)管理者に売却,貸与する場合
ここでは顧客とは出資者である。しかし同時に、「建物の仕様やデザインのテイスト、形態的な部分において最も緊密に設計者とともに意思決定を行う人間」である。このように、いわば、プロジェクトの行き先に責任を持っている人間のことを、ここでは顧客と定義する。
此の顧客がその価値基準において、「開発の立場の意見、管理運用の立場の意見、滞在し使用する立場の意見、それらが相互に対立が発生したときにどれを優先するのか、何を重要項目と位置づけるか」は、まさにプロジェクトにより異なる。(プロジェクトの固有性)
※今回設計論の対象とするのは、「継続的事業」としての建築プロジェクトである。いわば、時間的な広がりをもった建築事業に対する設計論である。
複数展開するシリーズものの設計、リノベーション、マスタープランを有する複数の計画、増築・改修が見込まれる建築物、将来像を有する構想としてプロジェクト、小さなアクションから徐々にスケールアップを見込んでいる事業、または、実験や検証を介して妥当性や方針を修正しながら進めようとしている一連の空間・環境の改善計画などがこれに該当する。
こういったプロジェクトは、要件の中に、設計されることそのものに対する持続可能性というものが含まれている。
言い換えれば、こう言ったプロジェクトでは、建築設計の中で意思決定が循環的に発生するか、または偶発的な対応としての意思決定が必要となる。
こういったプロジェクトにおける合意形成プロセスでは、共通の了解を積み立てることが必須だ。今回は、その知識の生産のプロセスと、そのノウハウに焦点を当てる。
◆ 顧客の目的が、個人の生活の福祉である場合と、法人の事業である場合とでは、プロジェクト理解に求められる知識の種類が大きく違う。
後者の場合、利益を生み出すためのロジックや、仕事の効率化、人々の行動様式への適応が建築計画に深く関わってくる。普遍的な空間を計画する場合でさえも、仮想のビジネスロジックが発生する。そして、そのロジックは、建築計画を適切なものにする為に学習し、これに適応する必要があるものである。これらの知識に関して、設計者は必ず、1人以上、その知識に詳しく、内的事情や何が課題であるかが頭の中に入っている専門家的人物を設計の協同者に加えなければならない(その人物が建築に関する知識を持っているかどうかは別として、その人物はプロジェクトのキーパーソンの1人である)。
◆ 設計者は、"設計上の概念モデル"を提示する。モデルは、設計サイドとして事業に関わる人たち(基本設計者、実施設計者、家具デザイナー、インテリアデザイナー、照明デザイナー、ランドスケープデザイナー……、施工管理者)全員が使用する言語の基盤である。このモデルは、建築物の詳細な設計・施工レベルと密接に結びついているが、しかしながら、協同者と「通訳せずに」コミュニケーションをとれるための言語基盤となることが要件となる。
設計上の概念モデルは、時に建築物そのもののモデルであったり、時に建築物に関連する情報のモデルであったりする。言い換えれば、そのモデルは知識であり、取り決めであり、コンセプトであり、建築物の運用プロセスを定義する体系である。このモデルをどれだけ深く追求し、簡素な・核心的なものとし、空間の配列から仕様までの様々な部分に反映できるかが重要だ。設計上の概念モデル(以下設計モデル)は、最終的にはツールでなければならず、実用上の厳密性と意味の豊かさを両立させなければならない。
※設計モデルは、協同者とともに改良を進めなければならない。検討の数と、コミュニケーションを通した空間要件への理解度に応じてモデルは成長する。根本的にはモデルの言語基盤にある用語をそのまま使って文章にまとめ、通訳を介せずに正しく理解し合えるようになることが、設計を改善する議論を最も活発化させる。
※設計者は往々にして、コンセプトが「どう機能するか」を語りたがり、しかし顧客はコンセプトが「私たちにとって何を意味しているのか」に関心がある。
協同者との会話においては、それぞれの役割に注力しなければならない。建築プロジェクトを説明する用語や事業構造に対して、協同者はそれが不適切な場合、あるいは重要な意味が欠如している場合、明確にそれに異議を唱える必要がある。そして設計者は、建築プロジェクトを説明する用語や構造に対して、それをかたちにする為に邪魔となる矛盾・不整合・曖昧さを質問し、明示的な理解を深め、(協同者とともに)信頼できる言語基盤を作らなければならない。
その言語基盤に求められる基準とは、「会話だろうが書面だろうが、いつでも・どこでも・簡単にコミュニケーションに使用できる」ことだ。もしその基準を満たさないならば、言語基盤の問題を協同者とともに、議論の俎上に取り上げる必要がある。まず、新しい言葉に変更しなければならない。そして、新しい言葉に応じた抽象的構造と、その体系を設計に活用するシナリオを会話の中で検討(エスキース)し、モデルを更新しなければいけない。
※時々、「建築家は抽象的すぎる」と顧客は思っている。そして、「クライアントは要求が抽象的すぎる」と設計者は思っている。しかしどちらが正しいかと言えば、それはクライアントである。事業を深く検討している事業者のほうが、このプロジェクトに関する豊富な知識を有すると考えるのが自然だ。認識の違いは、コミュニケーションのぎこちなさに起因している。そして、事業に対する理解は、設計者を通して事業者の中でも深まっていく。健全なコミュニケーションと共通の言語基盤の模索があれば、学習と発見は両者が共に経験する。本来、1つのチームはこの状態になることを目標としなければならない。
◆ 説明のための図は簡素でなければならない。必要なものはたったの数個の要素の問題の連なりである。余計なものがなければない程よい。包括的・網羅的であることを求めてはならない。図に文章を足し合わせて要素過剰な図を作るのではなく、文章は物事の注釈を行うものとして、図は図として選び抜かれたシンプルなものとして、並列させるのが良い。(説明図と文章の意識的分離)
文章によるコミュニケーションはあくまで設計の補完であり、あるいは会話の補完であり、それらの活動の役に立たなければならず、時系列的な保証と最新性を担保できる書式としなければならない。(不必要ドキュメントの削減)
※設計モデルは、(人々の集中を喚起し議論を触発するための)シンプルな説明用の図と別物であることを理解しなければならない。あくまでダイアグラムは後者である。(説明図と設計モデルの意識的分離)
・設計モデルとは、幾つかの物事の関連性であり、C.アレグザンダー流に言えば、いくつかの要素からなるサブセットの組み合わせである。
・設計モデルとは、空間のプログラムと経験を支える抽象的構造である。
・設計モデルは事業のある側面に関しては捨象し、その捨象した部分を「このモデルの境界の外にある」とみなして外部化する。外部化した事物は、モデルの言語基盤で説明できなくてもよい。事業者はこの外部化された部分も理解しているが、しかしながら本事業に関して問題となる部分ではないと現時点でみなされているため、モデルの取り扱う領域の外に置かれる。重要な概念を全て最初から取り扱う必要はない。重要な概念が、協議の中で見直され、追加されるたびに、設計モデルの境界はモデルと共に都度更新すれば良いのだ。
・設計モデルに関して、設計者はその整合性とフィジビリティを確保するよう議論を重ねる必要がある。
・技術的観点からみても、コミュニケーションの観点から見ても、設計モデルは、複数あってはならない。他のモデルが必要とされる場合、以下の二つの場合がある。
1 説明のための部分モデル : 親モデルの部分集合であり、特定の話題にフォーカスしたモデル。要素や連関の幾つかを間引き、分かりやすく文脈を示すためのモデル
2 複数のチームがあり、それらが責任と契約・建築の物理的範囲において明確に境界付けられている場合、それらのチームがそれぞれ構築するその他のモデルであり、モデルの適用範囲が相互に保護されているもの。
◆ 建物の運用に関する技術的なノウハウを設計者は有するべきである。ここでいう技術的ノウハウとは、「空間としてそれをどう実現するか」に関する知識である。
モデルが直接反映されて作られた建築は、建築作品である。このような建築作品は、空間の骨格が建築物の使用者に伝わる。単に行動を誘導するだけでなく、使用者にある種の知識を伝えることができる。このような空間は、持続可能な建築設計における次の仕事を大きく後押ししてくれる。
◆ 多段階にわたるプロジェクトでは、設計モデルを、「実施設計者」や「次のプロジェクトの設計者」に引き継ぎする必要がある。しかし、モデルに込められた意図や本質的部分を引き継ぐことは困難だ。
モデルの意図や本質的部分を引き継ぐ為に一番重要なのは、設計責任を構想部隊と実働部隊とで完全に分離しないことだ。なぜならば、責任が完全に分離してしまうと、構想側は実働の手本となる仕様的詳細部を提供できないからだ。また、詳細部の設計から得られる設計モデルの改善という基本的なフィードバックがなされないため、設計モデルがプロジェクト過程で急速に"過去のもの"になってしまい、レガシーとしてリスペクトされることはあれども、実用上不要なものとみなされてしまうからだ。
そうやって二つの関係が無関係になってしまった時、実施設計上の制約に対する感覚を設計モデルを構想する主体は失ってしまう。
これは教育的観点から見ても持続可能な建築設計ではない。知識とスキルが、ディテールに対する機微が設計者同士で伝達されないまま、仕様だけが一人歩きしてしまうからだ。
事業者(協同者)と共に建築の基本計画を立ち上げる構想側の立場にある設計者はだれでも、実施設計と現場に触れるため一定の時間を投資しなければならない。(逆にいえば、そういった設計の下流にある立場の実働設計者が設計上のモデルに関する議論にいずれかの段階で参加して、最も事業を理解している協同者と話をする機会を設けること、そういう機会を作れる体制を整えることが重要だ。)
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2. 設計技法
この設計モデルの議論をコミュニケーションに関する部分から真っ先に行ったのは、設計モデルの核心を先に説明したかったからだ。
この設計モデルについて私は、いわゆる "BIM(ビルディングインフォメーションモデリング)" とは距離をおいて説明している。BIMは学術的に信頼のおける用語ではなく、むしろ流行語に近い。BIMが指すものが本質的にプロセスなのか、それともデータなのか、データ駆動の建築生産姿勢のことなのか、或いはソフトウェアのことなのか、人と文脈によって言うことはバラバラだ。このような概念は議論を活発化させる為には必要だし、Web検索を行う人が自身の曖昧な関心に沿って情報を得る為にも必要だ。しかし、設計モデルはBIMに包含されるような対象ではない。設計モデルの核心は、前章で述べた点にある。
ただ、設計モデルにはBIMとしばしば酷似した用語や表現を用いることがある。例えば、設計の内容に関わる仕事には、実務的に2つの仕事がある。「決める作業」と「決まったものを実装する作業」だ。実装という言葉は、BIMを想起させるかもしれない。
重要な共通点は、両者がオブジェクト指向であることと、取り扱う時間スパンを従来の建築生産(建てて終わりの建築生産)よりも拡張している事だ。ゆえに、持続可能な建築設計が持つ顧客参加型デザインという方針は、本来ならBIM思想とは両立し得るものである。
ここからは重要な違い、すなわち以下の点について検討する必要がある。
BIMは、LODに基づき、設計上の詳細度合いを高めていく、手戻りを許さない設計プロセスとなる。また、BIMにおいてはモデルは実装そのものがコストである。フィードバックは少なければ少ないほど効率的であるし、無理に全てをモデル化する必要はない。一方で、持続可能な建築設計は開発がイテレーティブ(反復的)であることを指向する。修正することを前提としているというのは勿論のこと、ビジネスロジックに対する認識や「状況」が変化する際にも、過去のモデルを書き直すことを是とするのだ。
イテレーティブなデザインは、工期の見積もりを困難にさせ、手戻りや変更に伴う費用を増大させてしまう傾向がある。イテレーティブデザインにおいてもフロントローディングの仕事の進め方は可能だ。しかし、フロントローディングの思想により初期に行われた詳細の設計検討は質が高い一方で、変更に伴い終盤に行われる詳細の設計検討は吟味する時間があまりに短いことが問題だ。この際限のない仕様変更に直面してうんざりした仕事の経験がある人からすれば、その仕事を経験後にイテレーティブなデザインそのものを忌避する態度になるのは当然だ。
この点を理解していないと、設計モデルを運用することに挫折することになってしまう。
例えば、際限のない仕様変更をコントロールするために、「柔軟な変更ができるにも関わらず、いかに変更できない理由を作るか」「変更の提案をどのタイミングで持ち出し、何と相殺させるか」といった、設計コストを納める為の合意形成業務が、設計業務の多くを占めるようになってしまう。これは、顧客と設計者が対等な立場でない文化圏では設計者側によって暗黙的に行われている。これでは一体、何を目的として設計しているのか分からなくなってしまう。
それでは、反復的であると言うことの優位性とはなんだろうか?
まず指摘したいのは、LODをきちんと辿る設計プロセスにおいても、現場が始まってからも変更負担の大きい変更は発生するということである。これは顧客の要望そのものの変遷によるかもしれないが、その顧客を取り巻く激しい環境変化により発生する方針の変化であることもあり、誰かを説得すれば回避できるものでもない。そういったなかで、これまでの設計モデルを覆す根本的な設計変更が必要であると誰もが感じた時に、プロジェクトを納めるためにそれを抑圧するか、それを避けられないものとして受け止めるかといった2択に迫られる。持続的事業においては、変化への順応は遅れれば遅れるほど、厄介な問題ごとへと膨らんでいく。
"持続可能な建築設計"は、避け難い変更に備える為に最初からイテレーティブデザインの体制を作っておく、言い換えれば「初期対応に備える」姿勢であると言える。
ここでは、設計モデルをどのように建築にしてゆけば良いのか、いくつかの支援技法を動員する。
◆値, 属性, 特性
建築の構成要素には、ある種のまとまりをもって理解すべき要素と、さらにその要素を細分化したものがある。それらが多重に仕様を有している。たとえば、ガラスは個別の性能を有するが、ガラスと枠で構成される窓には窓としての性能がある。
オブジェクトには値を設けるだけでなく、オブジェクトの複数のまとまりに対する属性を設けること。そして、オブジェクトグループに対して〈構造としての〉特性を与えること。
BIMでは、非重複な要素で全てを並列に扱って包括しようとしないのが基本となる。複数のヒエラルキーにおいて、重なりを許容することが大事だ。
◆サービス
使用者にとって、空間の印象と意味とが重要であり、建築物のなかにある機能と構成要素が重要ではない。機能と意味とを接続するのがサービスである。
ここでは利用者のBEHAVIOR(ふるまい)を、適切に建築の空間操作に落とし込むプロセスが必要になる。こういったものは建築物の物質要素として概念化してしまうと、建築要件に"意味のない" 不自然な物質要素を追加することになってしまう。サービスは、建築物の構成要素である物質そのものの物性や形式からなるのではなく、どのように建築が活動を提供するのか(こう言った観点は環境面に限定した場合はアフォーダンスであり、運用面を含む場合はサービスと言える)に着目する。
◆モジュール
モジュールは、「分割による分担」と「まとまりによる凝集」の二面性を持つ概念である。
「分割による分担」とは、概念のもつれをほぐすようにモデルを変更する事である。
「まとまりによる凝集」とは、意味のある方法で要素をまとめられるようにモデルを変更する事である。
この二つを繰り返す事で、設計モデルは理解できない複雑なものから理解しやすいコミュニケーションツールへと改良できる。
言い換えれば、この二つの処理を通して、概念どうしの相互関係ができるだけ疎になるような分割を行う事こそが重要であり、それによって「全体の設計」という複雑で負荷の重いタスクを「モジュールの設計」という比較的頭で容易に扱える程度のタスクへと置き換えることができる。モジュールは最初は誤った設定になることが多く、フィードバックを繰り返してモジュールの設定を見直していく変更作業を行う必要がある。
◆生きた設計モデル
設計モデルでは、要素の生成と消滅が繰り返され維持すべき不変条件をある特定の要素に担わせるのは困難だ。軸となる要素・中心に据える要素を確定できない。何が作られ、何がなくなるのか分からないし、それがいつ起きるのかも分からない。そのせいで、間に合わせの設計作業を繰り返しては、それそのものが無意味な仕事になる(再利用されない)ことが多い。人件費の無駄遣いである。
最終的なモノ決めは発注時に確定するが、持続可能な建築設計においては確定させるまでのプロセスにおける対応に関心がある。図面の参照関係に対する運用方針や、仕様の変更時の波及範囲への一括変更を可能にするための設計図書の作成の仕方が問題であり、BIMの場合はどのようにワークセッションを行うのかが問題である。
そのために必要なのが、集約であり、不変条件が維持されるべき範囲をオブジェクトとして定義することである。特に、パラメトリックデザインを行う際には予め、集約の定義が必要になる。そして、この集約は同時に「窓口」としての役割を担ってもらう。すなわち、
・パラメーターの変更時には、各集約に対して変更の窓口を経由して制御すること
・内部のメンバーに対する変更のアクセスを厳しく管理し、保護すること。
が役割である。この取り決めにより、設計変更の際に不変条件をすべて不変のままにするこ
が可能となる。
既に発注してしまったものを変更することは基本的に要相談(原則不可能)であり、建築生産過程での決定済事項は不変条件であり、あらゆる設計上の知恵はその不変条件をむしろリソースとみなし、その活用を前提としなければならない。こういったときに、不変条件が維持される範囲は刻々と変化する。
すなわちこれは、可塑的な体をとる当の集約オブジェクトをできるかぎり可視的な形式とし、人間のコミュニケーションに活用できるものにする必要があることを意味する。
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3. 実践
実践に関しては、設計作業の中でデザインと言語とのあいだにどのような相互刺激が発生したかという点で評価できる。これについては、"持続可能な建築設計"の建築設計論 (2)にてまとめる。
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参考文献
Eric Evans 著 「エリック・エヴァンスのドメイン駆動設計」 今関 監訳 和知、牧野訳
※1章、2章についてはそのフレームワークが建築においても本質的に重要であるため、建築のコンテクストに置き換えてそのまま本記事に文章構造を採用した。3章以降についても考え方や疑問の作り方、仕事の中でのあるあるについては全面的に踏襲しつつ、語弊を避ける為にそもそも全く異なる用語を定義し直した上で、実質的に同じ意味の説明を行った(ex.モデル→設計モデル、ビジネスエキスパート→協同者、ユーザー→空間の利用者、ユビキタス言語→共通の言語基盤)
物の言い回しが原著と酷似していることは問題であるため、できる限り建築の文脈に置き換えて言い回しを若干変更したが、それでも残ってしまっている問題点についてはコメントに対して随時訂正を行う。
iPhone写真バックアップ戦略
基本的に、長期間保存する写真はJPEG 2000が良いと言われています(しかし、可逆圧縮の明示、劣化時の品質という点ではtiffも素晴らしいです)。pngは無圧縮だけれど破損に弱く、HEICについては規格が月日の流れに耐えることを目的としていないため将来的に開けなくなる可能性があるためです。
この一年、LivePhoto機能で写真を沢山撮影してきたのですが、デフォルト設定で保存してしまっていたため、これをheicからjpgに、そしてバックアップ用の規格に変換する作業が発生して困っています。
基本的に幾つかのバックアップの考え方があると思いますので、原則と実践について記事にしようかと思います。
■基本的な(ショートスパンでの)バックアップ
これは、iCloudが最も優れています。自動バックアップ、アクセスのしやすさ、ハード寿命によるデータ破損の可能性の低さを考えれば、クラウドに全依存したほうが短期的には便利であるように思われます。
しかし、それはApple製品を未来永劫使わなければいけないことを意味します。iCloud上の写真をバックアップ用のファイルとして書き出すプロセスは、クラウドを使うときの常ではありますが、個人にとってはあまりに莫大な通信量を必要とします。後戻りできないほど写真を溜めてしまってから、通信時間が長すぎてどうしようもなくハードベースのバックアップができなくなるのがオチです。
私は、基本的に、iCloudに自動でファイルを投げて自身の携帯から写真を自動で消去していく方針には不賛成です。なぜならば、そのシステムが破綻した時に手元に保証されるデータが限りなく少なく、また修復も不可能だからです。
■中期的なバックアップ
さて、ここで、自分が去年の春に撮った写真で色々試してみます。HEICとして撮影してしまった数々の写真の中期的なバックアップが目的となります。前半は、いろいろな方法でバックアップを試してみます。
最終的にはやはり.tifか.jp2にしなければならないですし、.jpgとして保管する場合、画質悪化についても気にしなければいけません。
・iPhone→Windowsへの直接の「写真のインポート」
現状これは、ほぼ全ての写真が正常にインポートされません。(スクリーンショットなどは大丈夫)
以前からも、写真の向きがめちゃくちゃになるという欠点がありましたが、いよいよこの一年で使い物にならなくなりました。
ちなみに、他アプリで撮った写真は普通にインポートできました。どちらにせよこの方法によるインポートは「楽」である一方で、全ての写真のバックアップを一切保証しません。
写真アプリに読み込めるファイルがほとんどですが、99.96%の写真はうまく読み込めますが、たまに読み込めないファイルがあるのでそちらについてはクラウド経由の方法を使う必要があります。
写真アプリに取り込んだうえで、ファイル>書き出す>未編集のオリジナルを書き出す でLivePhotoをjpgとmovで保存できます。さらに、全てのjpgファイルを選択した状態でダブルクリックし、プレビューアプリで開いた状態で
全ての写真を選択し、ファイル>選択中のイメージを書き出す>オプション>フォーマットをJPEG-2000に、品質をロスレス最大にする→これでHDDに書き出すことで、簡単に長期品質確保のための写真データとして書き出すことができます。Windowsで作業を行うより遥かに手数の少ない確実な方法で全写真・動画をバックアップできます。
もしMacの写真アプリへの読み込みを利用できない場合、クラウドベースでの書き出しの方法が複数考えられます。次にこれを検討していきましょう。
この場合、写真タイトルがかなり非明示的なルールに基づいて生成されます。また、 sRGBに色が調整されることになります。
問題なのは、ファイルが正常にアップロードされない時があることです。この場合、空のファイルとして認識されてしまいます。時間効率で考えると、この部分が酷すぎて実用的ではありません。
この場合、色の表現が未調整のまま移行がなされます。撮影したカメラのメタ情報がデータの中に残るため、露出時間などが保有されます。そして、Onedrive経由よりはタイトルも管理がしやすい、日付時間ベースのタイトルとして移行できます。
・iPhone→GoogleDrive→Windows,Mac
以上の試行錯誤の結果Dropboxでもう問題が解決されてしまったからこれ以上の検討は必要ないのですが、ここまできたらGoogleDriveの場合どうなるか興味がでてきました。
やってみた結果、OneDriveと同様に、メタデータの損失、タイトルの複雑化、sRGBへの色調整が発生していました。
こちらは、Dropboxが使えない特殊な状況でしか使わないですね。GooglePhotoも根本的には同様です。
普通の写真データの変換プロセスにおいては問題ないのですが、いままでのクラウドの方法における問題点を敢えて挙げるとすれば、Live写真の動画部分をバックアップできないことがあります。これについては、Live化したい写真を集約して一括選択→「ビデオとして保存」したうえでインポートすれば局所的に解決できますし、そうやってLive写真を取捨選択した方がいいと思います。どうせ、Live写真の写真部分を一つ一つ見ることなんて無いんだから、ムービー化した方が見返しやすいです。
・JPEG-2000への変換について
根本的な問題として敢えて言うべきことが一つあります。
上で試行錯誤して比較してきたHEICの写真からjpeg-2000までの変換の道のりには、どれもこれも必ず中間ファイルとしてjpgを挟む必要があるんです。つまり、長期保存用のデータにしてはいるのですが、必ず画質の劣化が発生しているんですね。iPhone→Macのルートでさえも、書き出しプロセスでjpgを挟んでしまっています。本来ならこの中間ファイルはpngないしtiffでなければいけないんです。私はそこまで一回の圧縮による画質損失を重く見てないので妥協していますが、アーカイブとしての正確さと言う点では不十分なんですよね。
あと、最終OSがWindowsの場合、結局.jpg→.jp2のコンバータ方法があまりなく、非標準搭載のソフトないし簡易的なプログラムを使わなければいけないという問題にぶつかります。いつか改善されるとは思うのですが。
■長期的なバックアップ
ハードディスクには物理的限界があります。
SSDよりはデータ寿命の観点から丈夫なHDDですら、いつかは寿命が来てしまうものです。そのため、HDD2台を平行運用して、式年遷宮のごとく定期的にデータの移動を行う必要があります。
そして、長期的に考えると案外「プリントアウト」という選択肢も悪くはありません。その場合、退色性の低いインクと、紙寿命の長い印刷紙を使用することが重要になります。
■バックアップを終えて
過去の写真を振り返り、分類し、不要なものを捨てることは、自動バックアップをしているだけではつい忘れてしまいます。今回複数のバックアップルートを検討しながらも、その整理整頓ができたことには満足できました。
利便性には、いくつかの時間スケールがありますし、アクセスの高速性と保管の安全性が必ずしも両立するわけではなく、重要なのは
・依存先をひとつにしないこと
・自分が確実だと思っている方法を完全に信用しないこと
だと思います。物理的なアーカイブですら、災害を前にしては無力なのですから。
仕事と生活と人生計画について
仕事・生活・人生計画の3点において、それぞれの目標と戦略、習慣を考えないといけない。
仕事の目標
そもそも仕事における目的が
・お金を稼ぐための責任範囲の拡大
・業務を通して達成する、設計の充実
・メタ認知的,数理的処理としての活躍の場
・社会的に孤立しないこと、日々の居場所
・精神の成長、対人能力と段取り能力の向上
となっている。
そこから、私の目標は
・主導能力への不安をなくす(=自信をつける)
・新しいことを始めるために踏むべき適正行動を理解し、毎月新しいことを実践する(嘲笑の対象になりたくないから)
・毎半月ごとに非技術的な技術(設計センスに関わる部分、人に信頼される時間管理に関する部分、上の立場の人に立って考える部分)を反省する継続的姿勢を獲得する
戦略
・周囲の観察→お土産などを利用して、観察した相手の仕事状況など雑談で聞く
・上司、教育担当に対して、与えられた仕事に対して、自分から仕事の進め方を文字で提案する
・挨拶を観察機会につかうこと。ただ挨拶するだけだと勿体ない
・誠実になること。誰もやりたがらないことや、誰かが助かることを小さなことから積み重ねる。
習慣
・毎日挨拶を大きい声でする[今日は元気だなと思われることに意味がある]
・ご飯を食べながら仕事しない
・仕事デスクはひと作業ひと片付けする
・「悪目立ちしたくない」→「無難になると長期的に悪目立ちする。むしろ今は、自分の失敗をヒアリングすることや人の意見を歓迎することに集中する」
・分類方法がわからない情報こそメモして肌身離さず持ち歩く(分類方法がわからないものを頭は都合よく忘れやすいが、そういう情報が将来のフレームワークになる)
生活の目標
生活の目的は、快適で充実し、常に成長と変化が見込める刺激的・触発的な生活を送り、享受した豊かさを噛み締め、そこから生まれる恵みを社会や家族に還元することにある。ゆえに、そのための目標とは即ち、
・物事の価値を吟味し、金と時間を価値あるものに惜しみなく使うこと。
・生産的な機会を生活に組み込むこと。
・健康を維持し、活力を高めること。
戦略
・換気、掃除、整理、睡眠: 身体的活力の向上
・衣食住を豊かに: 価値を再生産するブランドの活用
・家族を大事に: 自身の活動と学びを家族にフィードバックする
・想像、他者観察、自己開示、判断の保留: 全て自身を客観視するために必要であり、自身の成長につながる。また、利他的行動を非独善的に行うためにも重要。
・「人々は天才にだけ興味がある」という固定観念を捨てる。
習慣
・衣類、靴を大切にする。
・新しい体験や遊びをして、話のネタを作る。
・起きる時間を早くしようとするのではなく、寝る時間を明確に決めてその日を過ごす。
・趣味をSNSに依存させない。
人生計画の目標
人生計画の目的は、
・持続可能なものを持続可能にすること
・今できることを今やること
・自己を包摂する環境と自己との関係を主導すること
にある。ゆえに、その目標とは即ち、
・老後の生活に向けて、最も重要な生活習慣としての趣味や習慣を持続可能なものにすること
・大事な人との関係を、良好に持続すること
・自身の住居を適切に設計すること
・自身の行動範囲を将来にわたって広く保ち、また広げようとすること
・将来自身の健康が失われるその時に備えること
・将来の予測不可能な事態に備え、人生に複数のルートを想定しておくこと
・他者を疎外しないこと。また、孤立しないこと。
・環境、立場の変化を積極的に歓迎すること。その人間関係に支配されるのではなく、その人間関係に対して自分が取り組むべきことを呈示し、効果的な行動を行うこと。
戦略
・量的な貯金計画
・量的なリソースの計画
・趣味の時間占有率を高める
・趣味を公表する
・住まいの実現について定期的に調査と打合せを行う
・ローカルな環境への自己適応と、グローバルな環境での自己能力の適用可能性とを分けて考えながら能力開発を行う。組織の失敗から学び、わたしの失敗から学ぶ。
習慣
・読書すること
・学習すること
・企画すること
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仕事と生活と人生計画は分離できない。それぞれがそれぞれにおいて重要な因子だからだ。
だからこそ、この記事は、自身の1年後にも3年後にも7年後にも15年後にも適用可能な内省となっている。
建築における部分と全体の関係について
このような牧場での炊事は、町でのように衛生的にできないことは言うまでもないことであった。ニールスはこの状態を注釈して、次のように言った。「食器洗いは言葉と全く同じようなものだ。われわれはきたない洗い水と、きたないふきんとで、それでも結局は、皿やコップをきれいにすることに成功している。同じように、われわれの言葉の場合にも、不明確な概念とその適用範囲についての限界さえはっきりしない論理しかもたずに、われわれはそれを使って、われわれの自然の理解を明白にすることにともかく成功している。
(ハイゼンベルク,「部分と全体」 p. 220)
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学問の探究においては、事象の理屈を模索していく中でふと地平がひらける瞬間がある。そのときわたしたちの中に湧き出る感情を、どう言えばいいのだろうか。
ハイゼンベルクの著作、「部分と全体」において記録されているありとあらゆる対話の中に、その手がかりが隠されている。
理論が生まれ出る瞬間について少し説明しよう。
脳内には、客観的事実が記憶されており、また、その他様々な仮説や検証結果、その時に観測した物理的振舞いの軌跡や、特徴についてが断片的に舞い乱れている。それらは、理論の「部分」になり得るし、あるいはならないかもしれない。
継続的で最新の注意を要する思考の作業を重ねることで、緻密に、論理的に、数学的に、厳密に積み立てられた「部分」は、ある段階からその意味的なつながりを示唆し始める発光体へと変わり始める。不明確であったすべてが点滅し始め、お互いの関連について、それに従うべき何かを形取り始めるのだ。
そして、「全体」に向かって、断片から組織へ、跳躍すべき時が来る。
その際の"跳躍"は過酷であり、集中を必要とする。
そして、その跳躍が結実したとき、理論がもつ「全体」のもとにあらゆる部分と、かつてのあらゆる矛盾が統合される日が来る。
さらにいえば、その瞬間を得た物理学者は、その深淵さと、必然的とも思える理論の完全性、しかしあまりに少ない言葉で凡ゆるものを説明するという偉大さに気づいて、そこに立っている。
世界が、思考する自身に与えてくれたものの豊かさに気づくとき、その論理の中にあるものについて、私たちは一体どう語ればよいのだろうか?
ハイゼンベルクは、この本の中で、「偉大なる関連」と表現している。
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この「没入」は、夢中になるという意味では恍惚的ではあるが、ここでは、世界に対する理解がより充実するというよろこびである…ということに、より一層の注意を払わなければならない。つまり、反射的な快楽というよりはむしろ、より静かなる思考を促す──こころよい、静寂であるということを、私は強調したい。
ここで一つ例を挙げるならば、自然科学的な省察と、形而上学的な省察には共通点がある。
思推・客観的省察、および意識に対する思考 ── 世界の中で私たちが意識する不動の事実と人間との関連について考えるとき ── そのような意味での客観的省察を私たちが繰りかえすならば、それ即ち何が善であるかをおのずから導く。それを仮にAとしよう。
そして、わたしたちがより包括的に(より「正しく」)世界を記述するもの、偉大なる関連とも呼ぶべきものをより深く理解する瞬間があるならば、それを仮にBと呼ぼう。
……Aは、"どうあるべきか"を模索する思考の傾向であり、Bは、"どうあるのか"を模索する思考のプロセスだ。
真実やら真理やらは、言葉の綾でしかなく、重要なのは「極端に抽象化された事実らしきもの」であり、それは本人が思考の過程の上でそこに到達したときに当人のなかで「事実」になる。
A,Bともに、意識の明瞭さと、客観的事実からの演繹は必須である。そうでなければ、あるいは中途半端な帰納にすぎなければ、それは事実ではなく、単なる信じるものにすぎない。あらゆる論駁を許さず、厳密に確認され、そしてそれが世界の法則と照合することについて、他者からも認められると確信できるような事実をこそ、真理だとか真実だとか呼ぶべきなのだ。
しかしA,Bのどちらもが、その発見にあたって、ある感覚を呼び起こす。私はこれを、世界と自己との隔絶性が薄くなったような感覚、言い換えれば〈全体感覚〉と呼ぶことができる。
(語弊が多い言葉を用いているため注釈するが、このことは、宗教的、あるいは神秘思想的な意味での世界との接続・交信といったものではない。また、全体感覚というと語弊として、ポピュリズムのようなものを想起するかもしれないが、この感覚は、あくまで社会の一員であることの役割感覚とは無関係のものである。)
(また、ここでいう「世界」とは、私たちの知覚の外部に広がるものであり、その全体の中の自己ではない部分のことである。)
原則として、自己はアイデンティティを保持しているため、世界と分離され、一存在として認識される。デカルトがかつて「我思う、ゆえに我あり」として自己のみを唯一信じれるものとしたその前提として、自己でないものという存在について、私たちは疑いを晴らすことはできない。一方で科学者は、科学的に疑いようもなく、必然的に導かれた複数の定理が、相互の関係において奇跡的な結びつきを有する時、感動するのだ。
人間の思考はどれだけ明晰であっても不確かさを持ち、自己が考えついた「意味」や「役割」といった便宜的概念には限界があり、そうやってエゴは、世界と自己との隔絶性を紛れもなく感じ取っている。
科学者は、「断片的な事実がまるで、ある役割を果たしてある構造を生み出しているかのような興味深い状況」の際に、一瞬、この隔絶性が解体されたかのような錯覚に陥るのではないか? 私は、この感覚を〈全体感覚〉と呼んで取り上げたいと思っている。
AとBの、どちらにも優劣といったものはない。
ひとは、真理によっても、あるいは意志によっても、世界と自己の生を関連づけることができる。
✴︎
〈全体感覚〉は、科学者だけでなく、建築を愉しむあらゆる人の中で成立し得る。なぜなら、建築は空間認知と行動との関係性を、素朴な形で取り扱うことができるからだ。
空間意識の向かう対象は、あくまで現実である。にもかかわらず、現実は理解すれば理解するほどに、「かつてのわたしたちの現実」からは遊離していく。この過程はまるで航海にも喩えることができるだろう。到達したときには、すでに遥か遠くにいるのだ。
いわば、夢想である。
「ある場所までは自身で辿り着かなければいけない。しかしそこまで辿り着けば、世界の側から、私に世界とのつながりを教えてくれる」
このような空間を作れたら。
その空間にいる自身を想像してみる。
空間は、私の身体の行為に導かれながら同時に現出し、そして消失していく。しかし、私は、かつて見た断片的な世界の姿をもはや思い出せない。世界は今や、かつては曖昧であった不条理を克服し、新たな明確さを獲得した……。
その刹那の。
実証主義者にとっては、世界を、明白に論ずることができる部分と、沈黙を守っていなければならない部分とに区分するという一つの簡単な解決法がある。したがって、ここではまさしく沈黙していなくてはならないのだ。しかし、これ以上無意味な哲学はおそらくないだろう。なぜなら、たしかにわれわれは何一つとしてほとんど明確に言うことができないのだから。全ての不明瞭なものを削除してしまったならば、おそらく全くおもしろくもない類後反復だけが後に残るだけだろう。(同上, p. 342)
✴︎
1. 出発点
これは仕方のないことなのだが、
建築について語るときに重きが置かれるのは、この世界の秩序(どのようにあるか)ではなく、秩序化(どのようにあるべきか) である。
実用的秩序、社会的秩序とも呼ぶべき擬似的秩序を建築設計は取り扱う。
冒頭で述べた、ある種の〈全体感覚〉を伴うような、祝福された建築行為などは存在しない。この社会的秩序の中には、ただただ個々の「意図」があるのみである。
幻滅し、夢を捨て、現実主義になるということ。探究の学問としての建築学に期待をせず、実用の学問として建築学を受け入れること。
これが、建築に対する私の実感覚である。言い換えれば、私にとって何が不安であり何が安心であるかをコントロールするために作られた「事実」である。この「事実」のなかには、いったいどれほど多くの固定観念が含まれているだろうか?
2. 問題提起
語弊を恐れずに言うならば、本来、建築設計とは思考実験でもある。
(設計図には、確実な予測に基づく部分と、不確実な予測に基づく部分がある。製品としての品質確保が最重要事項となるとき、高精度な予測と解像度の高いイメージが必要となり、それゆえ思考実験的側面は弱くなる。)
(建築物は、一品生産的側面を持つ。その敷地・状況の差異があるからこそ、建築設計には予測の再検討、手法の応用、状況への適応、調査と観察、想像とリスクヘッジが必要になる。ゆえに、あらゆる設計は事後的な評価と事前の評価とのあいだに深い溝がある)
(なぜこれが語弊を含むかというと、建築物の生産は多くの場合において品質上の失敗が許されないからだ。しかし、それでもなお、デザイン上の失敗作に溢れかえるこの社会において、やはり1つの実作は1つの実験に過ぎないのである)
そして、設計プロセスには跳躍点がいくつかあり、その経過のなかにあるいくつかの提案と合意、その中にある設計者としての納得、クライアントとしての納得が建築的思考のフレーム下で重なることがある。
建築の可能性を拡張・探化させんとする、あるい発見的なプロジェクトにおいては、
「状況的に思考している私」と「原理的に思考している私」の中に、思考が按配され、その対立=矛盾関係に、建築の「出現」がある。
── 冒頭に述べたが、建築における〈全体感覚〉などは存在しない、という固定観念はあまりに強力である。
そもそも、経験したことがある人間にしか、Bの感覚は分からないからだ。多くのデザイナーが建築を志すきっかけは、Bの経験であることがしばしば美談的に語られる。そもそも実学である建築を学びながらも、建築を原理的に思考することの価値について「彼ら」が確信を抱いているのは、いったいどうしてだろうか? 私はそれが疑問であり、建築の原理的思考の可能性と妥当性について関心がある。
── この秩序はあるか、あるいはないかだ。しかし貫かれるというのは、どういうことなのだ?
(同上, p. 344)
3. 建築における原理的な思考の歴史
そこで、建築における原理的(B的な)あり方を主張した思考の歴史を振り返ってみる。
スコットが主張するには、
「純粋かつ直接に知覚された建築は、光と陰により表された空間・マス・線の組み合わせである。これらの僅かな要素が建築的経験の核心をなす。文学的空想や歴史的創造や良心の詭弁や科学の計算は、この経験を取り巻き、豊かにはするけれども、それを構成し決定することはできない。」
彼の教条に従うならば、クロンボル城にハムレットの亡霊を見るか否かは建築的経験にもコントラストをもたらすが、その壁面の隅に潜む暗闇に想像を働かせる私たちの情感は、建築の形式性の問題とは切り離されているようだ。
形式化においては、もしそれがすこしでも価値についての問題を取り扱う場合、…世界の中心的な秩序に対する人間の関係が重要であるのではないか? それならば、〈建築的経験の核心〉とは何だろうか?
カーンの空間哲学には、スコット的なフォルマリストとしての思想側面と、現象学的、実存主義的、実在論的な姿勢がある。カーンの空間は基本的に不安である。
カーンにとって最も重大な問題は、「ジョイ」であった。これまでの自問自答を通して、わたしたちはこのジョイの正体について、以前よりも深く理解できるかもしれない。
シュマルゾウが言うように建築とは内部のあるものであるがゆえに他の感覚的快楽や美をもたらす造形物と差別化される。
一般的に、部分と全体に関する建築論を行えばそれは以下の五つに大別されるか、そのいずれかに回収される。
(i) ブリコラージュや、共同的世界 (gemeinschaftliche Welt)のような部分同士の(偶然の)組み合わせだけで成立する自律的様相。
(ii) フラクタル(自己相似、再帰的構造)のように、スケーラビリティ(部分を拡大しても定性的特徴が保存されるという性質)を持つ関係や、多重入れ子の関係(各領域が、スケール毎の系として同時に成立している様相)など。
※言い換えればこれは、「部分は全体よりも形容が単純である」という私たちの一般的な感覚を転覆させるような構造を是とするもの、とも言える
(iii) 単位としての要素を定義し、モジュールのようにコーディネートの問題として部分と全体を解釈することで、複雑な状況を単純化し秩序立てる技術。
(iv) 音楽の概念を利用することで全体を構築する感性的アプローチ。
※部分と部分、そして部分と全体との"呼応"を取り扱うアプローチとも言える
(v) 中心/脱中心/多中心などの構築パターンを活用することで部分が全体の中に(集まるように、あるいは分散するように、)秩序づけることを目的とした場所論・ネットワーク理論。槇文彦の群造形概念のような形式論。
多くの議論がこれまでに行われてきたのだが、その殆どが、"関係性"ないし"相互作用(Wechselwirkung)"という言葉を多用する。
(わたしは、関係性という言葉を使うことによって、…すなわち、構造にこそより絞った焦点を当てる事によって、「関係」の部分的な問題を主題から排除してしまうことを危惧している。つまり、実在する関係への眼差しが失われ、関係性に対する理論が形骸化してしまうことを恐れている。
たとえば、「関係」を認めるために解決する必要のある幾つかの議題、たとえば、①存立の問題②因果の問題③価値の問題④形式の問題⑤浸透・同一化の問題 等の種々の重要な部分的問題を、考えないままに議論を進めるといった風にだ。
本来、これらを考えることを放棄してはならない。)
これより推察するに、部分と全体に関する議論の多くは、特定のシステムの自律性を議論しているにすぎないのではないか。造形のアイデアとして、あるいは全体という概念を復興させるために、あるいは機能主義からの脱却のために。
ゆえに、概念を延長して語ることができること(いかにあるべきか:A)については雄弁だが、個々の関係性が私たちに何をもたらすのか(いかにあるのか:B)について語ることは稀だ。本来ならば、「世界の中に位置づけられる」ということが、全体と部分とを並立的に感知するために重要な認識であるはずだ。
※私は、全体について語ることは極めて重要であると考えている。私たちは意図を持って建築を作るべきであり……そのとき全体について考えることは展望を開くことであり、指針であり、自らを誤った方向に進めないために必要な物であるからだ。
※関連なき全体性(断片化)が現代の市民主義を投影している、「であるがゆえにそれは新時代のすばらしい全体性である」などといった主張は、私は共感できない。つまるところ一つ一つの「関連」が私たちにとって場所を見出すための基礎となっているにも関わらず、それを知っているのに、最初からそれを考えることを諦め、抑制しているかのような姿勢には共感できない。
ここまで、建築における、原理的な(=B的な)思考について、しばしの間考えてきた。
これらが、これから提案する設計方法のヒントとなる。
4. 建築における〈理解〉の問題
そして〈理解〉の問題について今まさに述べようとしていることは、建築における「全体の中の部分」として人間の「空間を理解するという体験」をもたらす空間は、すなわち空間の三体的問題に属する「関係性の気付き」のダイナミックさと真正さによって実現される、ということだ。
建築内部空間の化粧などは瑣末な問題に過ぎない。
建築内部空間で発生する、空間把握能力を有する私たちが体験する 小さな〈全体感覚〉を、設計手法の中心に据えてはどうか、という提案をしてみたい。
場所と結節、路と軸(あるいは旋回)、領域とディストリクト、これらはそれだけではダイナミックでも真正でもない。
重要なのは三体性(α,β,γ)である、と私は気づく。すなわち、私から見た場αから空間βへの関係ではなく、かつ私から見た場αから空間γへの関係でもない、しかし別々に出発し必然的に導かれたβと、同じく必然的に導かれたγとが、驚くべき出会いを再びなすときに発生する「三体性」に、冒頭で述べた〈全体感覚〉を建築ユーザーが体験する足掛かりがあると思われる。これは、建築行動学における"定位"の概念の応用である。
この論は、他の建築論ではかつて指摘されたことがないが、二つの設計論に関係している。
一つ目は、アレグザンダーが指摘した「ツリーよりもセミラティスのほうが豊かである」という事象である。セミラティス構造そのものではなく、セミラティス構造その他これらに類する構造として述べられてきた「多様な空間の構造」が誘発する体験のほうに、本手法は着目している。
二つ目は、コルビュジエのプロムナード的建築である。プロムナード的建築の導く建築体験は、部分的には本手法に近いものがある。コルビュジエのプロムナードは、庭園のように作為的無作為を演出するのではなく、あくまで建築の「空間・マス・線」の構成力によって出現しているのだから、視覚依存的である。プロムナードの手法は、記号連想的な全体感覚を意図するシンボル手法よりも、より直接的に、より強力に、より普遍的に、私たちの空間定位を導く。
5. 世界内存在と建築と
「それによって世界を経験する建築」とは、まさにカーンなどの建築の性質であるが、スコット的なフォルムの問題だけではなく、部分と全体の問題であるともいえる。
部分と全体を考えるということは、世界を関係性を逐次定めることで捉えるのではなく、関係性同士の関係性をも理解しようとすることである。これは、システム思考と呼ばれる。関係は、ただあるだけの関係性による弱い繋がりのモードと、それらの関係性が有形化し実効的な太い帯となったモードがある。モードの遷移からなる、世界の様相的な現象パターンを考えることが重要だ。ひいては、そこから部分と全体の同一性や相互浸透性について考えないといけない。
それでは、空間の「関係性」をより必然的なものにするための秩序とはなにか?
以下の二つのテーマが、今後に展開され得ると考えられる。
・①身体②場所の力③結構、という関係構築を担う主要3論
・静謐さの極大化条件
次に、この出発点から思考を展開していこう。
6. 身体がもつ全体感覚から類型を導く。
本来私のために存在していた身体的要件の集合と、その要素からの直積を検討しよう。
私は「室」にいる。この室は、光と影により表現された、閉じた場所であるとしよう。
私たちにとって、室がその内部ではなくその他の領域を必要とする理由は何だろう?
室による室の「要請」という動作を空間操作の中で新たに定義すると、すなわち以下のような操作因子を想定できるようになる。
一、その空間が窮屈であること。身体感覚として、圧迫感や狭さを感じたり、窓などの開放的な要素がなかったり、人間の数の多さに対して空間の広さが確保できていなかったり、あるいはコミュニケーション上の理由で(険悪な雰囲気になるなど)部屋が狭く感じることはあるが、
それが「窮屈である」という感覚に結びついたとき、人はその室から抜けることを欲する。
二、一方的に監視されること。一方的に弱い位置に居続けることの不安は大きい。弱い位置というのは動物的な本能に基づいており、具体的には、「見られる」「覗かれる」「眺められる」という要素と、「隠れられるスペース」「死角」「見返せる」といった要素がある。これは、プライバシーとも関係している。プライバシーとは、「誰にも知られないでいられる」ことや、「誰にも干渉されないでいられる」こと、「自分だけの場所があり、その場所を自由にできるし、荒らされることがない」ことなどを相対的に表す、個人領域に関する性質だ。
文化的観点からすれば、身分の異なる人間同士の間に特に強いプライバシー上の分離が図られる。主人と賓客との分離、客同士の分離、下人の分離など、地位・社会階層・立場に基づく分離がこれにあたる。
三、衛生を獲得するため。人は幾つかの観点から室を分離する。
たとえば、機能的観点。清潔な水を獲得するためのスペースや、食事のスペース、就寝のスペース、排泄のスペースなどは分離され、個人がその室間を移動することとなる。
たとえば、生体的観点。空気・室の清浄性(二酸化炭素や一酸化炭素、ホルムアルデヒドその他特定の化学物質、空気中の細菌やバクテリア、塵・埃、ダニ、花粉その他様々なアレルギー源、放射性物質など……に過度に曝されない状況)を確保するために、それらの発生源である空間を分離したり、ある室を掃除・換気している間にその他の部屋を利用したりするなどして、人は室の間を移動することになる。また、タバコなど社会的所作を伴う要因によっても、その衛生の観点から喫煙空間を分離することがある。
日本などの文化圏では、上足と下足の分離が図られる。衛生とは生体的な衛生だけでなく、印象に基づく精神的な衛生もあり、その種類は文化的差異を持つ。
四、太陽の光を浴びるため。人を太陽の光によって体内時計をリセットし、さらにビタミンDなどを光合成により獲得する。屋外や、太陽の光のある部屋(サンルームなど)、窓際など、空間の移動によって人はまとまった量の太陽光のもとに滞在したくなるタイミングがある。
五、快適な温度・湿度の調節のため。空間ごとに微妙に異なる温度・湿度を人間は感じ取り、不快であるならばその室以外の室の温熱環境の記憶をもとに移動を試みる。
六、運動のため。動機と程度は様々だが、身体を動かしたいと欲した時、人はそれに適した場所へ移動する。また、歩くこと自体を気分転換に行う場合もある。
七、思考に即した身体スケールを持つ空間への移動。光のある巨大な空間は人にインスピレーションを与えるし、天井の低い空間は人と人との親密な関わりの場を支援する。人間の身体と空間との相対的な関係が、人間の"気分"を左右し、それが空間の移動のきっかけになることがある。
八、姿勢の欲求(休息の空間)
室はその形状に基づいて、そこに滞在する人の取ることができる姿勢の種類を規定する。
立位・座位・臥位を基本的な分類とする。座位の場合は腰の低さや足の高さ、背もたれの有無とその角度などがあり、その姿勢を受け止める椅子やソファ等からの抗力によって、体にかかる負荷も変わってくる。こういった小さな違いによって、人間の休息感や作業性、視点の向く先が変わる。人間が疲労を感じた時に、休むための姿勢を取ることができない場合、休息のためにその室からの移動を試みることがある。
以上、人間の身体の要請によって、人間がある室とそれ以外の室とを移動することについて考えてきた。次に、これらが室同士の関係を結ぶことに着目して、関係の様相を言語化していく。これは、お互いがお互いを求める室同士の相互関係性であり、しばしば対立的欲求に基づく対立的関係の体を取る。単に直接的な概念の対立だけでなく、いくつかの要求からなるトレードオフの対立的関係も考えられる。
たとえば、以下のようにだ。
・水平の圧迫感⇔垂直の圧迫感
・循環的監視構造の部屋
・涼しい場所⇔暖かい場所
・活動の光温度の空間⇔休息の光温度の空間
・午前の空間⇔午後の空間
・食事の姿勢を伴う空間⇔就寝の姿勢を伴う空間空間
・思考を開放する部屋⇔思考を収斂する部屋
・庭に開かれた部屋⇔空に開かれた部屋
・カーペット、畳、炬燵などによる寛ぎ⇔ベッド、リラックスチェア、ソファなどによる寛ぎ
こういった関係の対からなる部屋と部屋の構成は人間の身体的要求がそのまま室同士の必然的な関係として成立している。これらは電場と磁場の関係のように、相互にお互いを求め合う連鎖を生み出し、空間の(空間による)絆を作り出す。
身体の持つ全体感覚としては、これらの関係の対のうち、共存可能な幾つかの組み合わせを空間化していくことになる。
7. 場所の力が醸造する全体感覚から類型を導く。
本来、場所の力は私たち設計者が「発見」し、そうであると「肯定」することで初めて意識され得るものとなる。場所の力は一つ発見すると、それを軸にして設計が進むときもあり、その場合、一つの見出された場所の力に対する一つの関係(回答、応答)を構築する、という空間設計のプロセスとなるだろう。
稀に、場所の力を複数見出すことによって、空間と場所の力との対応を何個も作り出すことができた傑作もあるだろう(ルイジアナ美術館や、ジェフリー・バワの建築など)。これらはどれも素晴らしい作品といえるが、かと言って一つの強力な場所の力に対して関係を構築している傑作(マラパルテ邸やコルビュジエの母の家など)も劣らず素晴らしい。
特定の空間と、場所の力との間の関係には幾つかのパターンがある。
一、空間が場所を所有する、占有する
二、空間が場所を借りる
三、場所が空間に投影される
四、場所が空間に注ぎ込まれる
五、空間が場所の一部になる
六、空間が場所をフィルタリングする
七、空間によって場所が補完される
八、空間と場所とが流転する
九、空間が場所にそっと置かれる
十、場所の中に空間がある
ここから関係性の類型を導くとすれば、どのようになるだろうか?
加えていうならば、関係の中にある、必然性を基にして空間を成り立たせることで、関係の三体性を設計することができる。上に並べたような場所と空間との関係の中から、室が室を「要請」する動作を抽出することが次の思考ステップになる。