Dossiri - Kamaeru

建築・都市・生活の領域に関する知識の体系化、技術に対する考察、書籍レビュー等

私の今の目標

23歳になってもうすぐ半年がたつ。

「知らない」ことが依然沢山あり、それらが興味関心ごとであるにもかかわらず未知のままであるということに焦りを感じる。

この頃は、「思考テーマの不在」「コミュニケーション相手の不在」「実践の不在」「教える/学ぶのサイクルの不在」という4つの不在感に悩まされていて、ひどく物足りない日々(極端に言えばNEETな日々)を過ごしている。語彙力も低下しており、つらい。つらい上に、焦りがある。では、なにがどう変わってしまったのか。

 

【考えるという行為の変遷】

以前:

・ソーシャル思考 →「何が重要か」&「何に着眼すると何が見えてくるか」

アーキテクチャ思考 →「何がセンスある豊かなカタチなのか」&「射程があるか」

・ソルーション思考 → 「何が要項か」&「スタディすべきはどこか」&「目的」

以降:

・内省思考 → 「どうすればコミュニケーションが得られるのか?」

・「なぜ」型思考 → 「理を求めることが目的ではなく、人を説得する為の“思考”」

・計画思考 → 「いつまでになにを備えるべきか」という思考

 

以前は、課題演習を通して、「あるフィールドの中で位置づけられる自分」を目指せたし、そこに“結晶作用”というべきものがあった。

大学院に入っても、その基本モデルは変わらないはずだった。しかし就活を経て、自分のいるアカデミックな建築計画に疑問がわいてしまった。

「作家論と建築論がいわば混同しているように感じる。SANAA藤本石上伊藤平田のテクスト、カーンやロースやロッシのような理論、ズントーやコールハースのエッセイを読むことに何の意味があるのか。その本人の思考の経歴にある種の真理性が認められるならばまだ良い。しかしおおよそのそれらのテクストは自己正当化的テクスト(マニフェスト)としての「作家論=建築論」か混同しており、それを追従することは『思考』ではない。私は、いくつかの歴史主義に基づいたポジショニングの議論をふるいにかけて取り除き、時代的要求からくる前提に基づいた部分的に肯定できる議論をふるいにかけて取り除き、本当に事実的なテクストを求めたいのだ。」

「その論が建築論といえるのは、それが建築行為を行う場合のみ価値を持つという性質をもつということである。工学として方法論と有用性評価をベースにしていることは本質である。その場合、必ず「フィードバック」が行われてこそそのテクストには価値が生まれる。ラヴィレット公園は失敗だったと誰かが言わないといけないし、磯崎新のテクストに数値的なバックボーンを与える第三者がいないといけない。設計論ならば、誰かがその有用性を評価しないといけない。パタンランゲージはパタンランゲージ学を作らなければいけないにもかかわらず、アレグザンダーのなかば作家論として認知されている。建築学において、フィードバックがどのように成立しているのか」

「整理・分類自体には価値がないことについて。しかしながら、それらは建築家の自己表現においては重要な方法論である。なぜなら、作家は、自身の客観性、一貫性、説得力つまり「ブランド」を高めるために自己を魅力的なテーマ・キーワードをもって表現しないといけないからだ。その解釈としての分類手法そのものには、【妥当性】【インパクト】【ストーリー性】【明快さ・シンプルさ】などが求められている。ではそのテクストを学ぶことには価値があるのだろうか? まず表現の仕方を学ぶ際には役に立つであろう。それもまた作品を構築するという行為に役立つのだから。では、それ自体にアカデミックな価値はあるだろうか? 私は、それは部分的に認められないと考える。なぜならば、それを批判すること・反証することが別の何かの真実に繋がるわけではない(それは作家の自身の解釈でしかない!)からである。」

「ディテールと知的財産権の問題。技術を学ぶなら技術学校や社会人になってからの会社内知識の中で事足りる。建築はオープンソースで発達してきたのではない。建築計画の論文、ISOや建築生産の基準、技術革新によるアップデート、歴史の中で発展・継承されてきたものの妥当性、『名作』の模倣など、他のデザイン領域同様のアプローチをもって反復的・スパイラル的に発展したものである。それ自体がそれ自体の体系としての可能性から成熟したと思われる部分もあれば、いまだその良しあしが判断として保留されている手法もある。私たちがディテールを学ぶとき、私たちはディテールを「開発する」か、「デザインする」ことが多いが、なにをもって「学んだ・習熟した」といえるのかは曖昧であると言わざるを得ない。ゆえに、私たちは大学ではディテールを学ぶことはない」

「建築家が一般教養と人間性を求められていること。実践こそが建築であり、社交性のない人間が建築を学んでもその建築は評価されるようなものになり難いこと。それはどの学問でも同じだが、とりわけ建築を学ぶとはひとえに経験の差となってしまっていて、建築の学習におけるe^(iπ)=-1のような「美の到達点」は存在しない。」

 

以上が私が建築学に抱えている思いである。それぞれは課題であり、思考のヒントであり、同時に克服できるものであると考えている。不満と言ってしまえばそこまでであり、まだまだ私の知らないことが多すぎること、知りたいことや可能性のある部分が多いととらえるのが妥当だろう。

 

なぜ就活を得て、こういった思いが自身を思考の現場から離れさせしめるに至ったのだろうか?

 

・不毛なキャリア意識:目標を立てないことが習慣化してしまっていたこと。目標のないキャリアはまったくの無駄である。

・建築仲間と離れたこと:自分自身で課題を持つということをこれからはしないといけないし、そこにタイムリミットを自分で与えないといけない。環境依存からの自立。

・読書不足:教養、文学性、芸術性において貧しくなっていること。

・建築に足を運ぶことを怠る:もともと活動的ではないところに、さらに自分自身の位置を見失っていると、こういった欲望が湧いてこなくなる。やりたいことと結びついているという感覚を持って旅することも重要だし、やりたいことへ引っ張っていってくれるものに自分の足を運ぶことも重要である。

・過去作の消化不良:ポートフォリオの作りすぎ。未完成のものを未完成のままプレゼンテーションしようとするから良くない。「自分のために」模型を作る意識、持っていてもいい。

 

以上。

では理想はどうすればいいのか?

 

・就活と研究と建築の実質的な両立:ポートフォリオ意識をもって作品作りとコンペティションに取り組むこと。インプットをOJT的に行う事。習慣的なトレーニングとして自身の設計能力・表現能力を高める方法を考えること。積極的な寄り道(プログラミングや模型製作や読書やスケール測定、ブログ)を行う事。研究計画を立てて、コミュニケーションを行う事。インプットしたことのアウトプットの機会を与えること(計画系としての自主ゼミの開催など)

・セルフモニタリングを行う事

英会話教室、コミュニケーション教室への参加、アルバイトなど

 

結論

 

生きていて何もかも意味がないと感じる、死んでしまいたい、空虚、エネルギーがわかない、今の自分に焦りを感じる、限界を認めるようなことに強い劣等感を感じる、好きなことができていない上好きなことが何か思い浮かばない、最近何を考えればいいのかわからない…… そういった感じの自分の感情をひとしきり吐き出せた気がする。

自分の先に道はあるのに、ちゃんと物事を考えているような実感がないのである。このままではいけないという危機感の一方で、そこに対する答えは、「情報不足」だと感じる。自身の今のコンテクストをきちんと見ることが重要だ。

 

「見たことを認識する」(当事者であるはず自身が逃避せず当事者であること)

「思ったことをいう」(参画者であること)

「言ったことをする」(実行することでしか自己重要性は得られない)

「したことを見る」(評価すること、原因を考えること、ふりかえること)

 

私がこれらのことから目をそらしたとき、空虚さが襲い掛かってくるということを忘れず、一度しかないこの今を大切な未来に対してきちんと使う必要がある。

 

1年後 :新卒一年目として働いている真っ最中。場所は東京か?忙しすぎる。

3か月後:修論が詰め時。得られたものをどうするか考えている最中。この時期のアウトプットはとにかくスケジュールがタイトなのでシビア。「あのころは就活で余裕がなかったから仕方がない、今は修論で余裕がない」とか考えているのだとしたら陳腐すぎる。

1か月後:就活は終わっているかと。しかし色々一気に決めないといけなくて、困っているかもしれない。

1週間後:某社の面接が終わり燃え尽き症候群?燃え尽きてる暇もないし、「準備できてなかったけど仕方がない」とか考えているのなら陳腐すぎる。

 

「どう準備すればいいのか?」まで考えるべき。このブログには書かないが、それも含めてタスクだと思う。

 

明日からも頑張ろう。人狼したりYoutubeの動画で過ごしたりするのは、ものごとの延期でしかない。延期のつもりがなくても、客観的に見れば、延期なのだから……。

私が自己重要感を高めるように生きたいのなら、目標は持つべきだ。

「内定を貰う」だけじゃ目標になっていない。

「就活と研究と建築の実質的な両立」という目標が、今の自分の目標。